■フィルム番号2019「旧海軍軍属身上調査表」1
フィルム番号2019の「旧海軍軍属身上調査表」のマイクロフィルムには、旧日本海軍佐世保鎮守府と舞鶴鎮守府に「徴用」され死亡した朝鮮人の個人記録が含まれており、海南島で死亡した人の記録紙にはつぎのように書かれています。
「山本一雄」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。生年不明)は、「所属」は「海南施」、「身分」は「工員(職手)」で、1942年3月1日に「海南建」に「徴用」され、1943年11月8日に「海南島方面」で「戦傷死」しており、「状況」には、「大和川丸ニ於テ作業中敵機ノ爆撃ニ依リ受傷即日海口分院ニ入院同日戦傷死」と書かれています。
趙鐘完さん(本籍地、全羅南道。1937年12月21日生)は、「所属」は「若松丸」、「身分」は「操舵手(傭人) 船員」で、1942年11月4日に「海南需」に「徴用」され、1944年3月26日に「海南島方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と抗戦中沈没ノ際戦死」と書かれています。この記録によると、趙鐘完さんは、16歳になる前に「徴用」され、17歳3か月で命を失わされています。
兪百秀さん(本籍地、全羅南道。1927年生)は、「所属」は「28新生丸」、「身分」は「油差(傭人) 船員」で、1942年12月1日に「第28新生丸」に「徴用」され、1943年2月26日に「海南島方面」で「戦病死」しており、「状況」には、「急性肝炎 南支方面ニ於テ勤務中1943.2.26.海口市同仁会医院ニテ戦病死(急性肝臓炎)」と書かれています。
太田有奉さん(本籍地、全羅南道。本名不明。1919年生)は、「所属」は「若松丸」、「身分」は「機関員(傭人)」で、1942年10月24日に「海南海軍運輸部」に「採用」され、趙鐘完さんと同じく、1944年3月26日に「海南島方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と抗戦中沈没ノ際戦死」と書かれています。
南小宰さん(本籍地、全羅北道。生年不明)は、「所属」は「16警」、「身分」は「傭人」で、1942年2月23日に海南島で「戦病死」しており、「状況」には、「脚気に依り戦病死」と書かれています。「16警」とは、呉鎮守府特別陸戦隊の部隊によって編成された日本海軍海南警備府第16警備隊のことです。
「木戸顕澤」さん(本籍地、咸鏡南道。本名不明。1915年生)は、「所属」は「海南警 大和川丸」、「身分」は「舵夫(傭人)」で、1943年5月6日に「海警(大和川丸)」に「徴用」され、1943年9月1日に「同船乗組中侭楡林海軍運輸部ヘ配属変更」され、1943年10月26日に「南支方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と交戦中戦死 敵機海口方面空爆ノ際○○○○○大和川丸乗組員トシテ揚荷役ニ従事中爆弾ノ直撃ヲ受ケ破片ヲ残サズ飛散シ戦死ス 航空機攻撃」と書かれています。
この6人の個人記録紙すべてに、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
佐藤正人
フィルム番号2019の「旧海軍軍属身上調査表」のマイクロフィルムには、旧日本海軍佐世保鎮守府と舞鶴鎮守府に「徴用」され死亡した朝鮮人の個人記録が含まれており、海南島で死亡した人の記録紙にはつぎのように書かれています。
「山本一雄」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。生年不明)は、「所属」は「海南施」、「身分」は「工員(職手)」で、1942年3月1日に「海南建」に「徴用」され、1943年11月8日に「海南島方面」で「戦傷死」しており、「状況」には、「大和川丸ニ於テ作業中敵機ノ爆撃ニ依リ受傷即日海口分院ニ入院同日戦傷死」と書かれています。
趙鐘完さん(本籍地、全羅南道。1937年12月21日生)は、「所属」は「若松丸」、「身分」は「操舵手(傭人) 船員」で、1942年11月4日に「海南需」に「徴用」され、1944年3月26日に「海南島方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と抗戦中沈没ノ際戦死」と書かれています。この記録によると、趙鐘完さんは、16歳になる前に「徴用」され、17歳3か月で命を失わされています。
兪百秀さん(本籍地、全羅南道。1927年生)は、「所属」は「28新生丸」、「身分」は「油差(傭人) 船員」で、1942年12月1日に「第28新生丸」に「徴用」され、1943年2月26日に「海南島方面」で「戦病死」しており、「状況」には、「急性肝炎 南支方面ニ於テ勤務中1943.2.26.海口市同仁会医院ニテ戦病死(急性肝臓炎)」と書かれています。
太田有奉さん(本籍地、全羅南道。本名不明。1919年生)は、「所属」は「若松丸」、「身分」は「機関員(傭人)」で、1942年10月24日に「海南海軍運輸部」に「採用」され、趙鐘完さんと同じく、1944年3月26日に「海南島方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と抗戦中沈没ノ際戦死」と書かれています。
南小宰さん(本籍地、全羅北道。生年不明)は、「所属」は「16警」、「身分」は「傭人」で、1942年2月23日に海南島で「戦病死」しており、「状況」には、「脚気に依り戦病死」と書かれています。「16警」とは、呉鎮守府特別陸戦隊の部隊によって編成された日本海軍海南警備府第16警備隊のことです。
「木戸顕澤」さん(本籍地、咸鏡南道。本名不明。1915年生)は、「所属」は「海南警 大和川丸」、「身分」は「舵夫(傭人)」で、1943年5月6日に「海警(大和川丸)」に「徴用」され、1943年9月1日に「同船乗組中侭楡林海軍運輸部ヘ配属変更」され、1943年10月26日に「南支方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と交戦中戦死 敵機海口方面空爆ノ際○○○○○大和川丸乗組員トシテ揚荷役ニ従事中爆弾ノ直撃ヲ受ケ破片ヲ残サズ飛散シ戦死ス 航空機攻撃」と書かれています。
この6人の個人記録紙すべてに、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
佐藤正人
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