三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について

2009年09月11日 | 紀州鉱山
■きょう(9月11日)、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は熊野市の市長と教育長に、つぎのような質問をおこないました。


熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について
2009年9月11日
熊 野 市 長 河上敢二 さま
熊野市教育長 杉松道之 さま
                          紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会

 2008年7月18日に、熊野市長と熊野市教育長は、「「紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼碑建立にかんする要望書」に対する回答について」と題する熊教第725号で、熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」にかんしてつぎのように述べていました(原文の「元号」使用年を普通暦年に訂正)。

1) 「史跡外人墓地」については、石原産業株式会社の所有地であった際に作られ、1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて土地の寄贈を受けたものであり、旧紀和町が墓地の為に用地を提供したものではありません。
2) 「史跡外人墓地」の文化財指定については、1965年2月1日に当時の紀和町の文化財として指定しており、2005年11月1日の旧熊野市と旧紀和町の合併により新熊野市に継承されております。なお、合併後の文化財専門委員会において「外人墓地」から「英国人墓地」に名称を変更しております。
3) 「史跡外人墓地 紀和町指定文化財」の碑につきましては、旧紀和町で建てたものではなく、費用も支出しておりません。
4) 「町指定文化財 英国兵士墓地 LITTLE BRITAIN 紀南国際交流会」と書かれた看板の用地につきましては、熊野市の所有地ではありません。国土交通省の土地であります。

質問1 
   この「回答」で、河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長は、
     「「史跡外人墓地」については、石原産業株式会社の所有地であった際に作られ、1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて土地の寄贈を受けたものであり、旧紀和町が墓地の為に用地を提供したものではありません。(原文は「元号」使用)」
と述べていますが、「史跡外人墓地」は、いつ誰がつくったのですか。
質問2
   河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長は、「1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて土地の寄贈を受けた……」と述べていますが、1987年5月30日付けで旧紀和町が寄贈を受けた「史跡外人墓地」は、石原産業株式会社の所有地であった際に作られたという「史跡外人墓地」と同一のものなのですか。
質問3
   「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑には、「1987年6月吉日」という日付で紀和町教育委員会の碑文が書かれています。
   「1987年6月吉日」とは、具体的には何日なのですか。
質問4
   紀和町が、1965年2月1日に「外人墓地」を紀和町の文化財に指定した理由を示してください。
質問5
   熊野市文化財専門委員会が、「外人墓地」から「英国人墓地」に名称を変更した日と理由を示してください。
質問6
   現在熊野市紀和町にある「英国人墓地」は、「墓地、埋葬等に関する法律」にもとづく「墓地」なのですか。
質問7
   「墓地、埋葬等に関する法律」にもとづく「墓地」であるならば、「墓地」として三重県知事の許可をうけたのは、いつなのですか。
質問8
   「墓地、埋葬等に関する法律」にもとづく「墓地」でないならば、「英国人墓地」としているのはどうしてですか。
   「墓地」とした経緯や根拠を示してください。
質問9
   「史跡 英国人墓地」にイギリス兵の遺骨は埋葬されていますか。

   9月30日までに回答してください。
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