三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その5(2002・4)

2007年10月20日 | 木本事件
《「あの故郷」から「いつかの故郷」へ》
 相度さんと李基允さんにとび口を付き立てたもの、飯場を襲撃させたもの-襲撃・虐殺に加わった一人一人の行為であり、またその背後にあるもの-、それは今も熊野に有形に、無形に残っています。熊野市が発行する『熊野市史』は、この木本事件を「素朴な愛町心の発露」として、虐殺に理解を示す記述を残しています。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」は、これまでこのような記述を書き改めるよう要請してきました。しかし、いまだ書き改められていないこの現状は、地域社会に生きる人々の意識の反映でもあるでしょう。私はそのなかでこの地域社会を「私の世界」、私の「あの故郷」として育っていったのです。
 熊野の地域社会には、虐殺を批判する声もありました。また、木本トンネルの工事に朝鮮人労働者とともに従事していた日本人労働者のなかには、襲いかかる消防組、在郷軍人会への、ダイナマイトでも反撃に加わった人もいました。しかし、沈黙する地域社会は、地域社会による朝鮮人虐殺事件を越えることなく、虐殺が行われたその暴力構造を残してしまっています。それは私が見出すことのないまま、私と「私の世界」にすべり込んでいた暴力の根でもあったのです。

 殺された二人の影から、私は「私」の居場所を知り、私を知りました。それは地域社会に織りなされる権力の網のなかにあったのです。消防組、在郷軍人会の人々による襲撃がおこなわれたとき、日本人は、正確には朝鮮人を守ろうとしなかった日本人地域社会住民は、「安全」だった。その「安全」は、私が育ったところものでもないのだろうか。
 ひとつの人間、ひとつの世界。現実の人間は、国民国家、地域社会のなかで分節化されてしまう。私が日本人であることを私に引き寄せたとき、私は言わなければならないことがあります。「私の世界」の他者のために。崩れゆく「あの故郷」に、私の声を響かせよう。ひとつの人間。ひとつの世界。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」の運動のなかに私は、ひとつの世界を見ているように思います。熊野に追悼碑があることによって、追悼碑を訪れる人がいます。追悼碑のまわりの草を刈ってくれる人がいます。極楽寺では、住職が二人の新しい墓石を建て、花を供えに来る人がいます。私は、一人一人のこのような行為に、ひとつの世界のかけらを見るように思います。
 相度さんと李基允さん、殺された二人。「私の世界」に他者を見出した私は、その歩みを続けなければならない。日本人である私を引き受け、まだ来ない「いつかの故郷」へ。
終わり
久保雅和(立命評論 №106 2002/4発行) 
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