三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

石原産業四日市工場 1

2010年06月08日 | 紀州鉱山
 さきおととい(6月5日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員6人と在日本朝鮮人総聯合会三重県本部員1人が、石原産業四日市工場に行きました。

 1935年12月に石原産業は、紀州鉱山の坑道工事開始し、1939年7月に選鉱場を建設しまし、1938年10月に紀州鉱山の銅鉱石精錬をおこなう精錬所を四日市につくりはじめました。この四日市工場が操業を開始したのは1941年1月でした。都市地域での銅精錬は異例であり、紀州鉱山の鉱石などの日本国内の鉱石だけでなく「南方」で採掘した銅鉱石の精錬もしようとしていまた。操業開始後も工場建設工事はつづけられ、工事現場には朝鮮人労働者の飯場がありました。
 1943年4月に石原産業四日市工場は軍需工場に指定されました。
 1944年8月に石原産業四日市工場敷地内に大阪俘虜収容所第17分所が開設され、イギリス軍とオランダ軍とアメリカ合州国軍の「捕虜」600人が連行され、強制労働させられました。1945年4月に石原産業四日市工場の「捕虜」は名古屋俘虜収容所第5分所に移管され、そのうちの300人が1945年6月にが北陸地方に移されました。日本敗戦時にに四日市工場に残っていた「捕虜」は、アメリカ合州国兵196人、オランダ兵七五人、イギリス兵25人で、収容中に19人(アメリカ合州国兵14人、オランダ兵3人、イギリス兵2人)が、栄養失調、急性肺炎、打撲・骨折などで死亡していました(POW研究会の調査による)。

 わたしたちは、あらかじめ、石原産業四日市工場の木村博総務部部長に、四日市工場で働かされていた朝鮮人にかんする資料や宿所跡などを見せてほしいと伝えておきました。
 しかし、6月5日に、木村博総務部部長は、「恥ずかしいと思うが、四日市工場での朝鮮人労働者にかんする文書を探したが、見つからなかった」といいました。
 四日市工場の朝鮮人宿所や日本人宿所があった場所の近くに、「捕虜」にかんする碑がありました。
 それには、
    「人がその仲間達のために命を捨てるほど崇高な愛はない。
     平和と自由のために第二次世界大戦で戦い、かつ死んだ人々に捧ぐ。」
と書かれたステンレス板がはめ込まれてあり、その傍に、
    「これは第二次大戦中に不幸にもこの地で死去した占領軍兵士の墓碑である。私達は平和への熱望の花束でも
   って彼らの霊魂が永遠に安らかに眠れるようにしましよう。」
と書かれた「説明板」がたてられていました。
 この碑や「説明板」についても、木村博総務部部長は、
   「どのような経過で、いつたてられたのか、はっきりしない。碑文や「説明板」の文章の筆者もわからない」
と言いました。
  国立公文書館つくば分館にある「経済協力 韓国105 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調」には、石原産業四日市工場が、1946年6月5日に、「逃亡」した朝鮮人労働者の「未払工賃郵便貯金」4028円83銭、朝鮮人労働者13人の「家庭返金戻金」685円、朝鮮人労働者3人の「戦争死亡傷害保険金」8000円、朝鮮人労働者183人の「厚生年金脱退金」9229円71銭、朝鮮人労働者の「追加優遇金」23200円を、朝鮮人聯盟四日市支部に供託した、と書かれています。
                                           佐藤正人
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