三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

石原産業四日市工場 2

2010年06月09日 | 紀州鉱山
 6月5日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員6人と在日本朝鮮人総聯合会三重県本部員1人は、石原産業四日市工場を出たあと、紀州鉱山の鉱石が運ばれてきた埠頭があった海岸を見てから、近くの栄信寺と西願寺を訪ねました。
 石原産業四日市工場で亡くなった朝鮮人のことがわかるかもしれないと思ったからです。
 わたしたちは、あらかじめ、石原産業四日市工場の近くにある、法柳寺、栄信寺、法泉寺、西願寺、萬性寺に、つぎのような内容のお願いをしていました。
   
     かつて、故郷を遠く離れた日本で亡くなった朝鮮人について、ほとんどのばあい、その遺族は、自分の父や夫や
    息子が、日本のどこで亡くなったかを知る手だてはありません。
     そのため、遺族が「過去帳」閲覧のお願いをすることはできません。また、おおよそどの地域で亡くなったか伝え聞
    いたとしても、韓国や朝鮮民主主義人民共和国の遺族が、日本に来て、それを確認するのは、ほとんど不可能に
    近いことです。
     わたしたちは、日本敗戦以前と直後の三重県における朝鮮人の足跡について、①当時の新聞を調べる、②年配
    の方から話を聞く、③小学校の学籍簿から日本の学校に通っていた朝鮮人を確認する、④市町村に保存されてい
    る「埋火葬許認可願綴」で朝鮮人を確認する、⑤寺の「過去帳」から朝鮮人を確認する、などの方法で、調査を進め
    てきました。
     「過去帳」は、寺によっては、本籍地などが書かれていて、故郷の遺族と連絡をとることができる場合もあります。
     ただ、日本が朝鮮を植民地としていた時代、とくに、1940年2月から1945年8月まで、朝鮮人は、創氏と改名を
    強いられ、日本人式の名を名のらされていました。紀伊半島地域で亡くなられた朝鮮人にかかわる事実を知るため
    には、どうしても、当時の「過去帳」を、わたしたちが精査しなければなりません。
     なぜなら、当時の「過去帳」に記された名前が日本人式の名前であっても、その被葬者が朝鮮人である場合があ
    るからです。その判別は、「本貫」など朝鮮人の氏名にかんする十分な知識がなければできません。
     四日市では、石原産業の四日市工場、その関連事業などで、朝鮮人がおおぜいはたらいていました。
     御寺の「過去帳」から、三重県における朝鮮人の歴史が、またひとつ明らかになる可能性もあると、わたしたちは
    考えています。
     寺院の「過去帳」は、故人のプライバシーにかかわることがらが記載されていることを承知していますが、わたした
    ちは、個人的な目的でそれを知りたいと考えているのではありません。わたしたちの趣旨を御理解のうえ、ぜひ「過
    去帳」の閲覧を許可していただけたらありがたいと思います。

 西願寺の芳山和浩住職は、19世紀後半以後の過去帳をすべて見て、「創氏・改名」させられていた人のいたことを考え朝鮮人と思われる名前も探し、朝鮮人の名前を書きぬいておいてくれました。そこには、1940年から1945年までの間には、朝鮮人の名前はありませんでした。
 紀州鉱山では、本龍寺に朝鮮人の遺骨が残されており、慈雲寺本堂に置かれている「紀州鑛業所物故者霊名」と名づけられた文書には朝鮮人および朝鮮人と思われる人たちの名前が記されています。
                                            佐藤正人
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