わたしたちは、1998年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下(1995年8月)と続(1996年8月)を精読し、はじめて月塘村虐殺のことを知りました。
2002年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会いました。蔡徳佳さんは、「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった、侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、と言いました。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話し合いました。
そのとき、蔡徳佳さんは、わたしたちに、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』5、1995年7月)を寄贈してくれました。そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末―-製造“四大惨案”紀実」と楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」とが掲載されていました。
2005年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらいました。月塘村に侵入してきた日本兵は、当時8歳だった朱進春さんに銃剣を向けたそうです。朱進春さんは8か所傷つけられ、その後、村人に「八刀」と呼ばれたそうです。
わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、2007年1月17日でした。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんを蔡徳佳さんに紹介してもらい、朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらいまいした。
この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせてもらいました。
その4か月後、5月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねました。
6月から、わたしたちは、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の制作をはじめました。
10月はじめから11月上旬にかけて、連日、月塘村を訪ねました。
朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれました。
朱学平(Zhu-Xueping)さんは、
「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入
ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生
き残った。母、兄の朱学温(Zhu-Xuewen)と朱学敬(Zhu-
Xuejing)、姉の朱彩和(Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、
そして6歳だった妹の朱彩蓮(Zhu-Cailian)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹
は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしてい
るかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。
半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火に
あっていたが、骨になりきっておらず、くさっていた。
まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(Wanning)
から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(Zhu-Kailian)
が、近くの東澳(Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃
で撃たれて殺されていた」
と話しました。
佐藤正人
2002年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会いました。蔡徳佳さんは、「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった、侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、と言いました。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話し合いました。
そのとき、蔡徳佳さんは、わたしたちに、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』5、1995年7月)を寄贈してくれました。そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末―-製造“四大惨案”紀実」と楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」とが掲載されていました。
2005年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらいました。月塘村に侵入してきた日本兵は、当時8歳だった朱進春さんに銃剣を向けたそうです。朱進春さんは8か所傷つけられ、その後、村人に「八刀」と呼ばれたそうです。
わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、2007年1月17日でした。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんを蔡徳佳さんに紹介してもらい、朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらいまいした。
この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせてもらいました。
その4か月後、5月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねました。
6月から、わたしたちは、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の制作をはじめました。
10月はじめから11月上旬にかけて、連日、月塘村を訪ねました。
朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれました。
朱学平(Zhu-Xueping)さんは、
「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入
ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生
き残った。母、兄の朱学温(Zhu-Xuewen)と朱学敬(Zhu-
Xuejing)、姉の朱彩和(Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、
そして6歳だった妹の朱彩蓮(Zhu-Cailian)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹
は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしてい
るかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。
半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火に
あっていたが、骨になりきっておらず、くさっていた。
まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(Wanning)
から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(Zhu-Kailian)
が、近くの東澳(Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃
で撃たれて殺されていた」
と話しました。
佐藤正人
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