三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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文字・絵・音・声・映像 10

2008年06月30日 | ドキュメンタリー
朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」と言いました。
 その数日後、11月6日、わたしは、朱学平と「坡」に向かいました。その道は、以前にも歩いたことのある道でした。
 しかし、朱学平さんといっしょに歩いていると、違った道のように感じました。
 まえに行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに100メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まりました。すぐそばを太陽河が流れていました。
 そこで、朱学平さんは、つぎのように話しました。

     「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人につ
    いて、逃げた。
     妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るよ
    うにして逃げた。
     雨が降りそうになったので急いだ。
     ここまで逃げてきて隠れた。
     あの日、午後3時ころだったと思うが、大雨が降った。夜に
    は止んだ。
     ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつま
    いもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人
    に借りた。水は太陽河から汲んできた。
     3日後、妹は、静かに目を閉じて死んだ。なにも食べようとし
    ないで、水だけ飲んで死んでしまった。
     妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
     妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いま
    では、どこなのかはっきりしない。
     叔父(朱洪昆)が日本兵に10か所あまり刺された。からだに
    虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行きました。
 そして、とつぜん泣き出しました。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で戻りました。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていました。
 太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていました。
 すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでました。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行きました。朱学平さんは不在でした。連れ合いさんが、「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、と話しました。
                                   佐藤正人
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