三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「韓国軍のベトナム虐殺を扱った『最後の子守歌』、ベトナム国営VTVドキュメンタリー賞」

2017年04月15日 | ドキュメンタリー
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/26111.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2017.01.02 22:54 修正 : 2017.01.03 09:44
■韓国軍のベトナム虐殺を扱った『最後の子守歌』、ベトナム国営VTVドキュメンタリー賞
 年末放送大賞ドキュメンタリー部門奨励賞を受賞 
 異例にも国営放送局が製作し受賞 
 「ベトナムピエタ」像のモチーフとなった虐殺を扱う

【写真】ベトナム国営放送クアンガイ省「VTV」テレビプロデューサーのホニョッタオ氏(左)が韓国軍による民間人虐殺問題を扱ったドキュメンタリー『最後の子守歌』を撮影している//ハンギョレ新聞社

 昨年12月24日に開かれたベトナム国営放送「VTV」放送大賞でベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺問題を扱ったドキュメンタリー『最後の子守歌』がドキュメンタリー部門奨励賞を受賞したと2日伝えられた。ベトナム現地で韓国軍による民間人虐殺を扱ったドキュメンタリーが製作され、国営放送会社の放送大賞を受賞したのは異例のことだ。ベトナム政府はベトナム戦終戦以後、民族統合と和合を最優先課題とし、この過程でかつての韓国軍による虐殺問題は公論化しない基調を維持してきた。
 『最後の子守歌』の背景は、1966年に韓国軍の青龍部隊が南ベトナムのクアンガイ省ビンホア村で行った虐殺で、この虐殺で民間人430人が亡くなった。虐殺当時生後6カ月だったトアヌンイア氏(50)は銃弾に倒れた母親の腹の下にいてかろうじて生き残ったが、雨水と共に流れ込んだ弾薬のために失明した。この話は子供をしっかり抱きしめた母親を彫刻した「ベトナムピエタ」像のモチーフになった。
 ドキュメンタリーは昨年11月30日から5泊6日の日程でベトナム平和紀行に参加した韓国人参拝団30人あまりの姿も含まれた。ビンホア虐殺50周年の慰霊祭が開かれた12月2日、トアヌンイア氏を訪ねた韓国人参拝団が「犠牲者の墓の前で心が痛んだ」として涙を流し、トアヌンイア氏が参加者の手を握る姿は“和解”と“慰労”というドキュメンタリーの核心メッセージを伝える。
 ドキュメンタリーは過去16年間にわたり「ごめんなさい、ベトナム」運動をリードしてきた韓国ベトナム平和財団のク・スジョン理事、2015年ベトナム民間人虐殺被害者として初めて韓国を訪問した生存者ウンウイェントロン氏、「ベトナムピエタ」彫刻像を製作したキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻の姿を照らした。
 ベトナム戦当時、韓国軍による民間人虐殺は80件あまり、犠牲者は9000人に達する。韓国政府は未だ韓国軍によるベトナム民間人虐殺を認めていない。

ファン・グムビ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2017-01-02 18:03
http://www.hani.co.kr/arti/international/asiapacific/776990.html



http://japan.hani.co.kr/arti/culture/20626.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2015.05.11 21:58 修正 : 2015.05.12 06:20
■“記憶のための闘争”に転換された韓国のベトナム戦争
 ユン・チュンノ博士が最新論文で主張
 民間人虐殺の真実糾明のため
 1999~2000年のハンギョレ21キャンペーン
 「反共・発展のための戦争」とする公式記憶が崩壊
 参戦軍人は記憶強化で反発

【写真】ベトナム戦争 資料写真//ハンギョレ新聞社

 1999~2000年のハンギョレ21によるベトナム戦キャンペーンと市民社会団体の真実糾明運動により、この戦争に対する韓国社会の“記憶闘争”が公式記憶と対抗記憶の闘争として対立し、冷戦の社会的実在を見せているという分析が出てきた。
 歴史社会学者ユン・チュンノ博士(韓国学中央研究院主任研究員)は、季刊『社会と歴史』2015年春季号に載せた「韓国のベトナム戦争記憶の変化と再構成」という論文で、「(ベトナム戦争に対する)現在の記憶闘争は、公式的記憶と対抗記憶、それぞれの『記憶のための闘争』に転換された」と説明した。
 論文は1999年9月から2000年9月まで46週にわたり続いたハンギョレ21のキャンペーンは、韓国のベトナム戦争経験と記憶に対する社会的関心を触発し、その前後に形成された市民社会団体が真実糾明運動を行い、ベトナム戦争に対する“記憶”に一大転機を提供したと評価した。 その時まで、韓国社会におけるベトナム戦争の記憶は「反共・発展のための戦争」という公式的記憶で定形化されていたが、1987年以後の民主化と脱冷戦は戦争の記憶に対する国家独占の解体をもたらしたということだ。
 論文はまた、キャンペーンと真相糾明運動は参戦軍人に対して加害者であり被害者であるという二重の位置を付与したが、ハンギョレ21と市民社会団体の人権・平和談論に対して参戦軍人が反発し、公式記憶を強化する意図せざる結果を生んだと分析した。 時間が流れ参戦軍人の記憶が「政治的葛藤次元に転換」され、李明博(イ・ミョンバク)・朴槿恵(パク・クネ)政権のベトナム戦争関連法改正と公式記念行事に対して、ベトナム政府が敏感に反応し外交的な複雑性まで高まった。 このように、それぞれ異なる方向に展開した“記憶闘争”の結果、韓国政府はベトナム戦争に対する公式的記憶を否認することもできず、自由守護と経済発展のための戦争だったという修辞を捨てない限り、過去の歴史からも自由になれないジレンマに陥ることになったと論文は総合した。
 ユン博士は「参戦軍人と保守勢力は過去の公式記憶をより一層強化していて、ベトナム戦真実委員会を引き継いだ平和博物館や、韓国とベトナムの過去の問題に関心を持っている市民社会団体は、対抗記憶の維持・強化のために努力している」と述べた。それでも「脱国家的戦争記憶、生命権、人権、平和に根ざした戦争に対する認識の拡張は、社会的冷戦を弱化させることに寄与するだろう」と見通した。我らが内なる冷戦」が解体される時、初めてベトナム戦争は歴史の中の戦争として残ることになるという意味だ。

イ・ユジン記者
韓国語原文入力:2015-05-11 19:20
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/690695.html



http://megalodon.jp/2010-0817-1927-00/kankoku-020115.tripod.com/vietnam_war/miscellany/watasinomura.html
『ニューズウィーク日本版』 2000年4月12日号 ロン・モロー(バンコク支局長)
■私の村は地獄になった
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の
被害者たちが真実を語りはじめた
 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

★理由なき無差別の殺戮
 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

★見つかったのは肉片だけ
 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

★「首を切り落としてやる」
 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

★補償より謝罪の言葉を
 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。
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