三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

文字・絵・音・声・映像 9

2008年06月29日 | ドキュメンタリー
 わたしたちたが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った、2007年1月17日でした。その後、5月に再会し、10月に月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会いました。約束しているわけではないのに、月塘村で、なんどとなく、会いました。
 わたしたちには、1月には、月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はありませんでした。
 5月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになりました。
 数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めました。月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきました。その人が近づいてくるのを撮影しつづけました。その人は、朱学平さんでした。畑から帰る途中だとことでした。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となく、ありました。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがありませんでした。その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしは、1926年1月に、4歳のとき、三重県木本町(現、熊野市)で父相度さんを虐殺された敬洪さんのことを思い出しました。
 敬洪さんは、「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」と言っていました(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』〈2002年11月〉を見てください)。

 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えました。
 もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできません。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできます。
 昨年10月末、わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日、朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言いました。
                                   佐藤正人
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