三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

木本トンネルと紀州鉱山 3

2008年03月25日 | 木本事件
三 紀州鉱山における朝鮮人の強制徴用について

1 社史における朝鮮人労働者の記述について
 紀州鉱山における朝鮮人労働者の徴用について、『創業三十五年を回顧して』は、戦時下における「労力不足の対策」と題する項目で、わずか2頁にわたって書かれているだけである(254-256頁)。それによると、石原産業は1940年から朝鮮に労務担当者を派遣し、労務者を募集し、同年春に「江原道から百名の労務者が来山」し、1941年から1943年までに、江原道、京畿道、慶尚北道から毎年二百名程度の者が入山した」、とある。
 朝鮮人労務者との契約は「期限を2カ年」とし、「半年過ぎれば本人の希望により家族の呼び集めを認め、契約期間経過後は本人の希望通りにさせた」と書かれているが、それは1944年ころから「逃亡者が続出」した、という記述と矛盾している。自由な契約であれば逃亡という事態はありえない。労務契約はけっして自由契約ではなかった。朝鮮人労働者はもっとも多かった1943年で500名に達した、とされている。
 待遇についても、「わが社従業員と同様に待遇した」(254頁)とあるが、石原産業は、海外の鉱山で働く日本人従業員に対しては、諸種の福祉政策と待遇改善策を講じていた。長期勤続者優遇のために定期昇給、職務手当、海外手当、住宅手当、出産手当、そのほか高額の退職金や団体保険契約、自家生命保険制度など、石原はこれらの従業員待遇を会社の自慢としている(172-178頁)。これらの待遇が朝鮮人労働者に対して適用されなかったことは言うまでもない。
 なお、四日市工場においても、1943-44年から不足した従業員を補充する形で、朝鮮人労働者が徴用され、1944年には300名を受け入れた、という記述がある。

2 強制徴用の実態調査
 1997年になって市民団体《紀州鉱山の真実を明らかにする会》が結成され、『紀州鉱山1946年報告集』を手がかりにして、聞き取り調査が始められた。96年秋から97年夏にかけて、強制連行のもっとも多かった韓国の江原道の麟蹄[インジェ]郡(96名)、平昌[ピョンチャン]郡(160名)で調査がおこなわれ、役場や老人会を訪れ、戸籍簿を調べたり、聞き取りをすることによって、10数名の体験者に出会うことができた。日本でも、当時就労していた日本人の鉱山夫や徴用に従事した朝鮮人の監督に聞き取り調査がおこなわれた。
 石原産業が三重県内務省に提出した『報告集』には、朝鮮人労働者の名簿と本籍が記載されているが、名前は本名ではなく通名であり、本籍も不明確なものが多くて、調査の手掛かりになりにくい。そのため、通名から本名を推測し、面の事務所をたずねて戸籍簿を調べてもらったり、各地域の老人会を訪れて当時の体験者から情報を受け取るという形で調査が始められた。
 そのなかで紀州鉱山ではなく、そのほかの地域に徴用された老人の聞き取りもすることができた。たとえば平昌郡の安味の老人会では、南洋諸島のトラック島に徴用され、飛行場で働いたというお年寄りから話を聴くことができた。結婚してひとりの子供がいるなかでの徴用で、ラバウル島では1日12時間昼夜交替で働かされたとのことであった。
 また、植民地統治下の朝鮮の悲惨な状況も聴くことができた。畑の作物はすべて供出させられ、自分たちは木の芽や皮を食べた。徴用が嫌で山に逃げたが、そのために父親が逮捕され、やむなく山から出て来た、という話をしたお年寄りもいた。
 平昌郡の珍富面や龍坪面では、老人会の情報を頼りにして、紀州鉱山に連行された体験者に実際に面会することができた。これらの体験者の多くは結婚していて、一家の働き手をもぎ取られるようにして連行が行われたことがわかる。また徴用先がどこであるかもわからずに連行された者が多かった。日本に到着した後でも、家族との通信が思うようにならなかったとのことであった。朝鮮人が住んでいた寮にも、病院にも、監視がいて、逃亡を防いでいたが、それでもかなりの逃亡者がいた。また帰国の際にはほとんど手当をもらっておらず身ひとつで帰ってきた、ということであった。
 徴用の体験者はすべて70歳を越えており、今聞き取りをしなければ、50年前の実態は永遠のやみに葬られてしまう。このことを強く感じた今回の調査であった。
 日本の地域は、企業と国家に主導されて組織されてきたが、そのために、そこに国境を越えた人と人との絆が必然的につくりだされた。紀和町の住民がイギリス人の捕虜や徴用された朝鮮人と交流しコミュニケートする場がそこに生まれる。このコミュニケーションの場に、今日のわたしたちはどのような光を当てたらよいのであろうか。紀和町の紀州鉱山を訪れ、その後に江原道の各地域で聞き取りをおこなうなかで、わたしたちは、植民地支配と侵略戦争という50年前の負の遺産を国境を越えた地域間の新しいコミュニケーションへと転換する可能性を感じとることができた。

追記
 本稿は、共同研究「わが国の産業経済の将来動向について」の一環である。筆者は、1997年8月6日より10日まで、聞き取り調査のため韓国の江原道平昌郡訪問した。聞き取りの詳細な報告は、別の機会におこなう予定である。
 なお、この研究ノートをステップにして、今後このテーマを継続して追究していきたい。

《参考文献》

1)グローバル化によって国家主権が動揺し、新しい複合的な主権が誕生しつつあるという論点については、以下の拙著・拙論を参照されたい。
  『ノマドの時代』大村書店、1994年。
  『都市の美学』(共著)平凡社、1996年。
  「新しい人種主義と越境する市民権」『月刊フォーラム』1995年4月。
  「国民国家の危機と新しい市民権」『月刊フォーラム』1996年5月。
  「市民社会の発展とラディカル・デモクラシーの課題」『歴史としての資本主義』青木書店、1998年(刊行予定)。

2)「木本事件」に関する資料・文献
a)地元地域の郷土誌関係
  「木本トンネル騒動」(岡本実氏執筆)『熊野市史』、1983年。
  谷川義一「鮮人騒動の記」『木本小学校百年誌』創立百年祭実行委員会公報部編 著、1973年。
  武上千代之丞「内鮮人[ママ]土工乱闘事件始末」(同氏著刊『奥熊野百年誌』)、1978 年。
b)木本事件に関する文献
  金静美「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」『在日朝鮮人史研究』 第18号、在日朝鮮人運動史研究会、1988年。
  『六十三年後からの出発(増補版)』三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ 相度)の追悼碑を建立する会、1991年。
  斉藤日出治「虐殺された朝鮮人労働者の追悼を!」『月刊ちいきとうそう』第251号、1991年。
  金静美「一九二六年一月、三重県木本町(現熊野市)で、そしてそののち」『季刊サイ』第七号、在日韓国・朝鮮人問題学習センター、1993年。
  『六十八年後の追悼  除幕式資料集』三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会、1994年。
  斉藤日出治「六十八年後の追悼 三重県熊野の朝鮮人虐殺をふりかえる」『月刊フォーラム』1995年3月号。
  嶋田実「李基允氏と相度氏の“墓石”と追悼碑  三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者」『季刊リバティ』第9号、大阪人権歴史資料館、1995年。
  朴仁祚「木本事件の追悼碑」『キョレ通信』第2号、梅軒研究会、1995年。
  金静美「虐殺七〇年後の夏」『在日コリアン関西パワー』第7号、新幹社、1997年。
  佐藤正人「熊野市の木本トンネルと紀和町の紀州鉱山」『キョレ通信』第5号、キョレ通信編集委員会編、梅軒研究会刊、1997年。

3)石原産業に関する文献
  石原廣一郎『創業三十五年を回顧して』石原産業株式会社社史編纂委員会編刊、1956年。
  『石原廣一郎関係文書』赤澤・粟屋ほか編、上・下巻、柏書房、1994年。

4)紀州鉱山に関する資料
  紀和町史編纂委員会編『紀和町史』1993年。
  『紀州鉱山1946年報告集』石原産業株式会社。

5)紀州鉱山に関する調査研究文献
  紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」『在日朝鮮人史研究』第27号、在日朝鮮人運動史研究会、1997年。
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