三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

年表・紀州鉱山史(抄) 1

2008年03月18日 | 紀州鉱山
1920年9月 石原廣一郎、マラヤのスリメダン鉄鉱山開発のため、大阪市に合資会社南洋
     鉱業公司設立。
1925年8月 石原産業公司設立。南洋鉱業公司の事業すべてを継承。
1929年8月 石原産業公司を石原産業海運合資会社と改称。
1934年7月 石原産業海運、三重県南牟婁郡入鹿村に、紀州鉱山を創業。
1935年12月 紀州鉱山坑道工事開始(清水組)。
1935年12月 「紀州鉱山従業員85名が、待遇改善を要求して同盟罷業」。
1937年4月 紀州鉱山板屋に選鉱場建設開始。1939年7月、完成。
1938年10月 石原産業海運、紀州鉱山の銅鉱石精錬をおこなう付属精錬所として三重県四
     日市で工場建設開始。
1939年2月 日本軍、海南島に侵入。5月、石原廣一郎、日本軍の護衛で海南島資源調査。
     8月、石原産業海運、海南島の田独鉄山を独占、1940年7月以後、奪った鉄鉱石を日
     本八幡製鉄所に。
1939年7月28日 「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」、「朝鮮人労務者募集要綱」(内
    務・厚生両次官名義の依命通牒)→「募集」方式の朝鮮人強制連行開始。
1940年から 三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、1939年度に200人、19
     40年度に300人の朝鮮人を紀州鉱山に連行することを承認。石原産業の社
     史には、「(1940年から)朝鮮に労務担当者を派遣し、同年の春、江原道
     から百名の労務者が来山」と書かれている。
1940年5月 石原産業海運、北山川瀞峡上流の3か所に発電用ダム建設申請。地域住民が反
    対し、計画中断。
1941年1月 四日市工場操業開始。都市地域での銅精錬は異例。日本国内だけでなく
    「南方」で採掘した銅鉱石の精錬もしようとした。操業開始後も工場建設工事
    はつづけられ、工事現場には朝鮮人労働者の飯場があった。
1941年5月24日、紀州鉱山の朝鮮人労働者130人が、米穀の増配を要求してストライキ。
   警察は「警察官にたいする暴行事件関係被疑者」として30人逮捕。7月4日、「首謀
   者金子命坤外十二名」を、「公務執行妨害並傷害罪」で「送局」。
1942年   日本軍のフィリピン占領後、石原産業海運、フィリピンのカランバヤンガ
     ン鉱山(ルソン島)の鉄鉱石、アンチケ鉱山(パナイ島)の銅鉱石、ピラカ
     ピス鉱山(パナイ島の銅鉱石)などの採掘開始。
1942年2月 「朝鮮人労務者活用に関する方策」閣議決定→「官斡旋」開始。
1942年2月 京畿道長端郡から99人の朝鮮人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)。
      中央協和会の文書は、「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづいて紀州鉱山に
      「雇入」された朝鮮人の総数は、1942年6月末までで582人であり、そのとき
      の「現在数」は228人であるとしている。
1942年3月中旬 カランバヤンガン鉱山の西原儀一鉱長が、抗日ゲリラに殺される。
1942年9月 サンホセ(アンチケ銅山の積出港)からアンチケ銅山にトラックで向かう
     石原産業の従業員24人、抗日ゲリラに攻撃される。石原廣一郎、日本軍に空
     爆依頼。陸軍航空隊が爆撃。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする