東播磨の中世史は赤松氏なしには語ることはできないのですが、かんじんの赤松氏の東播磨にいての活動は、はっきりわかりません。
語られている少しだけを紹介しましょう。
赤松氏と中道子山城(1)
志方の城山は、標高271.6㍍の山で、特に登るのに躊躇するほどの山でもありません。
東播磨の中世の歴史を語るとき、赤松氏を抜きには語れません。
中世ここに赤松氏のお城がありました。
いろいろの書物をあさってみました。
が、「中道子山城」の名は知られているわりに謎だらけの城です。
中道子山
この270㍍の城山の名前本当の名前は「中道子山(ちゅうどうしさん)」です。
中道子の「子」は「寺(字)」が変化した読み方だといわれています。
もともと、この城山の頂上の一角に「中道寺」という寺があったようです。
安楽寺(細工所)の由来に「西暦811年、弘法大師(空海)の孫弟子の真詔上人が詔勅を受け、大日如来像を彫刻し中道子山上(今の城山)に一宇を設立し、真言宗無量寿院と号す」とあり、安楽寺は、無量寿院から始まるとしています。
安楽寺さんにお叱りを受けそうですが、安楽寺だけでなく、寺伝は一般的に「あやしげな」記述が多いので、数字・固有名詞はここでも若干疑っておきます。
志方町の大パノラマ
城山は、東志方の東北部に位置し、南は平野をへだてて飯盛山、高畑の前山に対しています。
北は札馬(さつま)の谷をへて、大沢、畑の山に伸びています。
志方城に登ると志方の大パノラマが広がっています。
戦略上、絶好の位置にあったことが想像されます。(no4887)
*写真:城山(中道子山城)から南方のパノラマ