ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(275) 近世の加印地域 高砂篇(73)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(44)・松右衛門、紗那港を造る

2018-09-16 08:58:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

            工楽松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

 寛政2年(1790)5月、松右衛門は、自分の持ち船・八幡丸でエトロフへ出発ました。エトロフの冬は早く、10月いったん兵庫港へ引き返しました。

 翌、寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航しました。

 その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進みました。

 あらかた紗那(シャナ)港は完成させ、10月に帰航しました。

 以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政7(1795)に工事を終了させています。

 なお、松右衛門が築港したこの場所は、江戸時代には恵登呂府島(エトロフ島)といい、戦前のエトロフ島西北部紗那郡の有萌湾(現:ナヨカ湾)です。

    松右衛門は、エンジニア

 松右衛門は、湾底に散らばる大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留するようにしました。

 埠頭をつくったのです。

 のち島民は松右衛門の徳をたたえて、ながく「松右衛門澗(港)」と呼んだといいます。

 なお、澗(ま)とは小さな錨地の意味です。

 その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった文化4年(1807)当時、エトロフ鳥の警備をしていた南部藩の火業師(砲術)・大村治五兵が書きのこした『私残記』に記されています。

 それには、「このシヤナ(紗那)の港は、石があらく、その上遠浅で、大船が入るには、実に危険なところです。

 そこで船頭・松右衛門が石船をいう船をこしらえて、海底の石を取り払って、船の係留する所をつくった・・・・」と書きのこしています。

 松右衛門の技術がいかんなく発揮されています。

 そして、エトロフでは、予想をはるかに超えた鮭の豊漁がありました。 

 「工楽」の姓をたまわる

 後に、幕府は、この松右衛門のこの紗那港づくりに対し、享和2年(1802)、三十石三人扶持を与え、松右衛門は「工楽」の姓をたまわり、帯刀を許されました。(no4594)

*挿絵:エトロフでの豊漁

◇きのう(9/15)の散歩(10.822歩)

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