ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(49) 加古川市は(第11回)国体のハンドボール会場に

2017-06-02 07:50:08 | 地域の風を読む

   加古川市は(第11回)国体のハンドボール会場に

 昭和31年10月発行の「広報かこがわ」は、第11回秋季国体が加古川市でも開催される特集を組んでいます。

 タイトルを見ると、「国体秋季大会開催」「両殿下の行幸を仰ぐ」と誇らしげに宣伝しています。

     加古川市の財政は火の車

 昭和31年に第11回国体が兵庫県で開催され、加古川市ではハンドボールの会場に決まりました。

 しかし、経済的な負担の問題がおおきな課題でした。

 県下の各市町村は、昭和28年6月ごろから開催種目の誘致運動が始まりました。

 加古川市でも、体育協会を中心に体育館建設による室内競技、軟式野球、軟式庭球などを目標に誘致運動がはじまりました。

 ①  の体育館建設は、財政的理由により、あっさり拒否。の軟式野球も人員が多く設備が大きなものが必要であると却下されました。

 そこで、体育協会は、の軟式テニスに絞って誘致運動をすることになりました。

 しかし、庭球も12面のコートが必要で、そのために1.500万円ほど経費がかかります。寄付金等いろいろ考えられましたが、無理がありました。

 それに、体育協会の一部から「台風で被害を受け、なんら対策もされず・・・」また「失業者を見殺しにしてまでして開催する必要があるのか・・・・」等の意見が出されました。

 県からの補助金を要望することになりましたが、それもかないませんでした。

 昭和29年11月29日の体育協会理事会で、軟式庭球誘致運動も最終的に終止符をうちました。

 諦めきれない加古川市は、あまり設備費用のかからないハンドボールの誘致を決めました。

 それでも、なお開催反対の声があったのですが、ニッケグラウンドと加古川東校のグラウンドを会場として行われた。

 当時、加古川市の財政は火の車でした。(no3606)

 *写真:JR加古川駅から国体会場(ニッケグラウンド・現在のプラザホテル付近)に向かわれる天皇・皇后一行

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