『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社)に、一枚の写真の写真があります。
この写真の説明に「高砂の町並み(高砂市昭和初期」、当時北本町通り周辺の屋並みがよく分かる。瓦屋根の並び、通りも狭かった」とあります。
高砂町の町並み(昭和初期)
写真の上に山がみえるので南から北の方向を撮影した写真です。
右の煙突のあたりは三菱製紙の会社です。
手前の狭い通りは北本町の商店街で、その商店街は南の南本町商店街に続いています。
高砂は工場の好景気に寄より、商店街は賑わっているようです。
その時代の高砂町のようすを『高砂市史(第三巻)』から拾ってみます。
企業の景気に左右される商店街
1930年(昭和5年)4月4日づけの『神戸又新日報』は、鐘紡の賃金引下げにより、「高砂町商家は間接に相当の打撃をうけ、従って収益税に関係をきたし、町当局へも幾分の打撃を与えはすまいかとみられている」と報じた。
また、「・・・1935年(昭和10)12月20日づけでは、「誓文払大売出」が始まった17日、三菱製紙は「タンマリと賞与を支給したため、三菱景気にうるおい、各商店は景気よく、相当な人出をつづけている。
鐘紡工場は20日ごろ賞与が支給されるため、同町の誓文払は上々の成績をみるであろう」と報じています。
労働者の得る賃金・賞与の多寡が、商店の売上に直結していたのです。
高砂の商店街は近在の買い物客が集まるのではなく、商圏はせまく地元の人の購買で成り立っていた商店街でした。
そのため、高砂商店の浮沈は工場の景気に左右されました。
現在は、その上に大型販店の進出により本町商店街の賑わいは消えた・・・(no2842)
*写真:昭和初期の高砂町の街並み
『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社』)より
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