ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(261) 高砂町の町並み(昭和初期)

2015-06-27 08:00:11 |  ・高砂市高砂町

 『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社)に、一枚の写真の写真があります。

 この写真の説明に「高砂の町並み(高砂市昭和初期」、当時北本町通り周辺の屋並みがよく分かる。瓦屋根の並び、通りも狭かった」とあります。

    高砂町の町並み(昭和初期)

 写真の上に山がみえるので南から北の方向を撮影した写真です。

 右の煙突のあたりは三菱製紙の会社です。

 手前の狭い通りは北本町の商店街で、その商店街は南の南本町商店街に続いています。

 高砂は工場の好景気に寄より、商店街は賑わっているようです。

 その時代の高砂町のようすを『高砂市史(第三巻)』から拾ってみます。

     企業の景気に左右される商店街

 1930年(昭和5年)4月4日づけの『神戸又新日報』は、鐘紡の賃金引下げにより、「高砂町商家は間接に相当の打撃をうけ、従って収益税に関係をきたし、町当局へも幾分の打撃を与えはすまいかとみられている」と報じた。

 また、「・・・1935年(昭和10)12月20日づけでは、「誓文払大売出」が始まった17日、三菱製紙は「タンマリと賞与を支給したため、三菱景気にうるおい、各商店は景気よく、相当な人出をつづけている。

 鐘紡工場は20日ごろ賞与が支給されるため、同町の誓文払は上々の成績をみるであろう」と報じています。

 労働者の得る賃金・賞与の多寡が、商店の売上に直結していたのです。

 高砂の商店街は近在の買い物客が集まるのではなく、商圏はせまく地元の人の購買で成り立っていた商店街でした。

 そのため、高砂商店の浮沈は工場の景気に左右されました。

 現在は、その上に大型販店の進出により本町商店街の賑わいは消えた・・・(no2842)

 *写真:昭和初期の高砂町の街並み

   『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社』)より


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