東浜町(ひがしはままち)
北は高瀬町、南は材木町まで南北に連なる町並。
町名の由来は町場の東端で硯在の堀川である高砂川沿いに位置したことによる。
船着場があリ、問屋の蔵が建並んでいた。
壺屋長左衛門(つぼやちょうざえもん)・小間物屋儀兵衛(こまものやぎへい)・ 米屋清兵衛(こめやせいべい)は大蔵元で塩座役でもあった。
天保9年(1838)の家数13戸・人数54人
姫路藩の経済を支えた町(東浜町・今津町・材木町)
私たちは、現在の風景から、かつての町のようすを想像がちです。
東浜町を歩いています。少し失礼な表現ですが、現在の町のようすから、かつてのこの界隈のにぎわいは想像できなくなっています。
しかし、南堀川を挟んだ材木町・今津町と共に東浜町は高砂町の中心であり、姫路藩の経済を支えた町でした。
復習になりますが、「高砂町を歩く(10)」を読んでおきます。
・・・『高砂市史(第二巻)』に、安永二年(1773)の高砂の町の人口を記しています。
人口の極端に少ないのは材木町の46棟、今津町の56棟、東浜町の55棟です。
竈数も10軒、13軒、13軒と極端に少なくなっています。(竈数:その屋敷地に建てられた町屋の世帯数)
しかし、この三町は、面積としては決して小さくありません。
その理由は、この町が高砂の港湾機能を担う中心的な地域であったためと考えられます。
材木町と今津町は二町で南堀川を囲で両岸と堀留を占めており、東浜町は北堀川と南堀川の間の高砂川岸壁を占めています。
この場所は、加古川運と瀬戸内廻船によって運び込まれ、また搬出される膨大な貨物の集積、積み出しを行う施設が並び、姫路藩だけでなく、加古川流域の諸大名の年責米やその他の貨物を保管する蔵が立ち並び、それらを扱う大蔵元を心に廻船問屋や船宿など大規模な町屋が軒を連ねる地域でした。(no2833)
*『高砂市史(第二巻)』参照
*地図:東浜町の位置、写真:現在の東浜町沿いの高砂町の岸壁(写真右岸)