伝承によれば、西井ノ口の源通寺(げんつううじ)の仏様(ご本尊)は、聖徳太子がつくられたと伝えています。
身代わりの仏様
この仏様には、次のような伝承があります。
・・・・
源通寺の本尊は、もともと紀州和歌山の浦の武士であった、藤城六良衛門の持仏でした。
六良衛門は、この仏様を背負い、法華山(西国三十三番礼所・26番所)へ詣で、そのまま志方の畑村に住まいを定めました。
それから19代を経て、藤城武兵衛の時に、この地方は、三木合戦の戦場となりました。<o:p></o:p>
武兵衛は、この像を背負い備前(岡山県)の松浦へ逃れましたが、ここも戦場となり再び志方に帰っていましたが、その時、敵兵が追撃し武兵衛に斬りかかりました。
不思議なことが起こりました。
武兵衛は、確かに斬られたのでしたが、何事もなかったかのようです。
敵の刀は仏様の肩を切り、仏様の肩からは血が、泉のように噴き出していました。
以後、この仏様は身代わり本尊として人々の厚い信仰を集めました。
武兵衛は、その後、再び志方の畑村に帰りました。
文禄四年(1595)のことです。源通寺の僧・寂導(じゃくどう)が不思議な夢を見ました。
・・・黒衣をまとった僧が夢に現れ、「私は、今志方の畑にいる阿弥陀である」。寂導は驚き、早朝さっそく畑村へ急ぎました。
途中で仏像を背負った老人に出会いました。
その老人は「源通寺はどこでしょうか。私は、畑に住む武兵衛と申します。私の家には数代にわたり、聖徳太子の御作であるという仏様がございます。御縁が尽きたのでしょうか、近頃は不思議な夢ばかりを見るようになりました・・・・」と言うのです。
寂導は、いいました。「私も昨夜不思議な夢を見て志方町の畑村へ急ぐところです・・・」
そして、老人の持つ仏様を見ると、寂導が夢に見た仏様と寸分違わない仏様でした。
お互いに、この不思議さを語り合い、この仏様を源通寺の仏様とし手お祀りすることになりました。 <o:p></o:p>
源通寺は炎上するが・・・
その後、明歴二年(1659)、長楽寺の本尊と取り替えることがありました。
この日から毎夜、源通寺の僧の夢に「・・・急ぎ私を迎えに来るべし・・・」。また、長楽寺の僧の夢には、「・・・急ぎ我を源通寺に送るべし・・・」という夢でした。
そのため、この仏様は再び源通寺へ帰って来ました。
その後、何事もなく過ぎました。
延宝六年(1678)正月十五日の夜、源通寺は猛火に包まれ、寺宝は一瞬にして、ことごとく焼失してしましました。
ただ、この仏様は、三町も離れた松の上に飛び、光を放ち昼のよう輝いたといいます。
その後、この仏様は、われわれに大慈悲を以て、すべての人々をお守りして下さってくださいました。
*『印南郡誌』参照、写真は西井の口の源通寺(源通寺の阿弥陀像の写真が入手できた時に、差し替えます)
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