天神山 そこに志方城があった
*志方町西飯坂
天神山は宮山のすぐ西の峰で、標高127メートルの低い山であるが、志方を一望できる位置にある。
天神山について『播磨鑑』は、赤松円心の四男氏範(氏則とも書く)が築城したと書いている。
赤松氏範(うじのり)について、少し説明をしておきたい。
赤松氏範
赤松則村(円心)には四人の男子があった。
一男範資(のりすけ)、二男貞則(さだのり)、三男則祐(そくゆう)そして四男は、天神山城の城主の氏範である。
氏範は、父円心の死後、三人の兄たちと不和となり、南朝方につき兄弟間の争いとなった。
足利義満は、赤松則祐らに命じて氏範を攻撃させた。氏範は敗れて、逃れた。
そして、永徳三年(1383・北朝年号)、播磨清水寺(加東市)に立てこもり、則祐の子の義則に攻められ、父子5人、郎党137人とともに自害した。
氏範滅亡のとき、清水寺の僧たちは義則側に加わり、そのため、義則は、清水寺に感謝し、そして氏則父子追善のために田畑二町を清水寺に寄付している。
*氏範の墓は、清水寺の門前の茂みの中にひっそりとある。
天神山城から志方城へ
天神山城は、氏範の城であつたことは、史料等で確かめられていない。
あるいは、別の人物であったのかもしれない。しかし、当時の状況から赤松に繋がる人物であったことは確かである。
その後、天神山城は、赤松氏の有力被官(家臣)である櫛橋氏に与えられたようである。
ともかく、櫛橋氏が山城である天神山城から、平城である志方城(現在の観音寺・志方小学校の場所)へ本拠を移すのは、この時代の城郭の変遷からいっても順当といえよう。
*写真:天神山の遠景
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