「かこがわ100選(57)」の余話として
一遍の死と教信寺
教信寺にまつわる一遍の死について書いてみます。一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。
ウィキぺディアは、一遍の死について次のように書いています。
・・・正応2 年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50 歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる・・・
死地を求めて
一遍は、正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃、讃岐の国の善通寺へ向かいました。
それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。
教信寺で眠りたい・・・
夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。
そして、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で死にたいと思うのでした。幸にして、七月十八日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。明石から、印南野の教信寺まで、すぐ目と鼻の先です。
一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた、教信のそばで眠りたい」と・・・この時、早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。
真光寺へ
明石についた一遍の一行を待っていたのは兵庫からの信者の出迎えでした。
ようやく臨終の地に臨もうとした一遍は、もはや生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。
一遍は、兵庫の真光寺へ向かいました。真光寺で静かに51才の生涯を終えまし。この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。
*写真:遊行中の一遍