ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話として「一遍の死と教信寺」

2013-04-24 07:32:51 |  ・加古川100選

「かこがわ100選(57)」の余話として

一遍の死と教信寺

3e7b5541教信寺にまつわる一遍の死について書いてみます。一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。

ウィキぺディアは、一遍の死について次のように書いています。

・・・正応2 年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50 歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる・・・

死地を求めて

一遍は、正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃、讃岐の国の善通寺へ向かいました。

それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。

教信寺で眠りたい・・・

夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。

そして、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で死にたいと思うのでした。幸にして、七月十八日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。明石から、印南野の教信寺まで、すぐ目と鼻の先です。

一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた、教信のそばで眠りたい」と・・・この時、早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。

真光寺へ

明石についた一遍の一行を待っていたのは兵庫からの信者の出迎えでした。

ようやく臨終の地に臨もうとした一遍は、もはや生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。

一遍は、兵庫の真光寺へ向かいました。真光寺で静かに51才の生涯を終えまし。この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。

*写真:遊行中の一遍

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かこがわ100選(57):教信の墓所

2013-04-24 07:13:26 |  ・加古川100選

教信上人の墓所       

 *野口町野口

「教信の墓標(56)」の続きである。

写真上をご覧いただきたい。盛り土の上に五輪塔が置かれている。

この絵は、大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山、大念仏寺が所蔵する絵伝軸の一部である。

   教信寺法泉院の盛り土は教信所人の墓所か

Photo 教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟・湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行った。

これが、野口大念仏の始まりだといわれている。

この絵は、その湛阿(たんあ)が、野口念仏を開いた翌年、融通念仏宗の祖師の一人の法明が念仏聖らと教信上人の墓参りをした場面を描いている。

ということは、絵に描かれた五輪塔の置かれている盛り土は、教信上人の墓ということになる。

教信寺の法泉院の中庭にある、こんもりとした盛り土(写真下)が、それだと伝えられている。

Photo_2 教信上人は、ここに葬られたのだろうか。

法泉院の中庭の盛り土は、長い年月を経て、現在形は少し崩れているもののその雰囲気を伝えている。

この盛り土には説明がないため、「教信の墓所かもしれない」ということに気づかれる方は多くない。

教信寺へお参りの際は、ぜひお訪ねていただきたい。

盛り土の上に描かれている五輪塔は、現在の場所に置かれている五輪塔である。

 *写真上:良人・法明両上人絵伝軸(大念仏寺所蔵)より

  写真下:教信寺法泉院に残る教信上人墓所

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