ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(291):志方八幡社⑬・志方棒連中

2012-05-31 06:03:58 |  ・加古川市志方町

「志方郷(33号)」で、礒野道子さんは「志方棒連中」について紹介されています。

「棒連中」とは何でしょうか、初めて聞く用語です。

説明の一部をお借りします。

   志方棒連中

007志方八幡神社の本殿の西に、えびす社があります。

その前に一対の灯ろうと、幟石柱が建っています。

ふだんは、この石灯籠、幟石柱の文字に注意する人は殆んどいないと思われますが、

「志方棒連中」と刻まれています。

お参りの時はご覧ください。

えびす社は、明治12年西宮からお迎えしています。幟の石柱は明治14年、灯ろうは明治16年に建てられています。

そして、これら幟の石柱と灯ろうは共に、志方捧連中が寄進しています。

灯ろう基段には周旋方として、小さな字で15名の名が刻まれています。

「棒連中」とは初めて聞く用語です。

志方棒連中とはどんな人たちでしょうか。

棒の仲間ということですが、この捧とは天秤棒のことで、捧の前後に荷物をぶら下げて売り歩く、行商人たちの仲間です。

えびす神社は、商売繁盛の神様です。

ですから、灯ろうや幟立ては、商売繁盛を願って棒連中が寄進したのでしょう。

志方における棒の行商の歴史が古いようです。

   盛んであった棒商

002江戸時代に書かれた助永村の明細帳に次の記述があります。

(注)助永村:明治9年、助村と比村が合併して、お互いの一字をもって永室村となりました。

「当村百姓作間隙の節(さくまひまのせつ)、塩物、油元ゆい売、丹波路まで罷り出で(まかりいで)一、二夜泊り罷り帰り申候(まかりかえりもうしそうろう)」

この伝統は、作間商人(あきんど)として農家の副業となり、明治の終りまで続き、農家にとって大切な現金収入であつたようです。(以下略)

以上「志方郷(第33号)」より

文体・内容は一部変えています。詳しくは「志方郷」をお読みください。

*写真上:えびす神社

 写真下:灯ろうの文字「志方棒連中」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 志方町を歩く(290):法... | トップ | コーヒーブレイク:「ひろか... »

コメントを投稿