すでに述べたように、新田村が用水を獲得するには、旧来からの水利権に割りこむことになります。
用水権の再調整が必要となります。
解決は「内済」が原則
これには、すでに述べたように藩権力が大きな役割をはたしました。
新しい水利秩序ができあがると、その運営には藩は原則的には介入せず、基本的には「自らの用水は、自らの力で守りなさい」という方針をとりました。
藩がその後も指導をするとなると膨大な事務になるし、また間違った判断をした場合、農民の不満を藩が背負うことになります。
それに何よりも、当事者の納得の解決が一番良い方法であることを藩は、知っていました。
とはいうものの、用水の争いはしばしば発生しました。
その全てを、問題のおきた集落間で解決できたわけではありません。
代官所に訴え出る場合もありました。
前号の、草谷川の川郷8ヶ村と国岡・加古新村との水争いも代官所へ訴えでた一例です。
水がたくさんある時
双方、その言い分を主張します。が、判決の決め手は「前例」でした。
「以前、どのような取り決めがされたのか」ということです。
延宝8年(1680)の文書(国岡土地改良区所蔵)に次のような記述があります。
「(大溝用水からの取水に関して)冬春之儀ハ少シ茂構無御座候、四月より七月迄之内、用水之時者下江流申様願申候、四月より七月迄之内たりとも水沢山の時者、少シ茂構無御座候、・・・延宝八年申ノ六月・・・」
現代文にしておきます。
「・・・灌漑期であって水が沢山あるときは、草谷川から水を取ってもかまわない・・・延宝八年(1680)・・・」
つまり 「水がたくさんある時」というあいまいな記述が水争いの原因になるのですがですが、この記述により代官所はそのときの状況を判断することになりました。
もしこの記述がなければ、国岡・加古新村は対8ヶ村との訴訟で敗訴したと思われます。
代官所は、この記録とその時の状況を判断して国岡に有利な判決を下しました。
保管されてきた古文書
争いごと(特に水争い)のおきやすい印南野台地の村々にとって記録(文書)は、単なる終わったことを記録した文書ではなく、その時・将来に備えて保管すべき大切な書類でした。
そのため、稲美町の各土地改良区には多くの古文書が保管されてきました。