ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(80):池と天満宮⑥・蛸草大池

2010-01-13 08:39:39 | 稲美町

天満大池は天満(村)にある大池という意味でしょう。

天満村は、明治22年の41日に誕生しています。だとすると、天満大池の呼称は新しく、それ以前は天満大池と呼んでいなかったはずです。

きょうの報告は、歴史になっていません。史料等の裏づけがありません。

   天満大池以前

Puaru_417  まだ、天満大池がなかった時代の大池周辺の地形を想像してみました。

大池のあたりは、西や南の平野部から見ると、一段と高い岡状の地形となっています。

北や東から見ると、この地は一段低くなって、岡ではありません。

いつしか、このあたりは「岡」と呼ばれ、そこにある集落は固有名詞の「岡(村)」となったと思われます。

印南野台地の水は天満大池のあたりに集まります。

そこに池が造られ、その南・西の一段低いところに水田が開けました。

岡(村)は、池の西や南に広がる水田地帯から見た集落の呼称のようです。

  最初は、岡の大池

造られた池は、現在のそれより小さいものだったと思われますが、最初は、何の飾りもなく単に「池」あるいは、「大池」と呼んでいたのではないかと想像します。

が、周辺の人々はやがて、その池を岡村の近くの池という意味で「岡の(大)池」と呼び、この呼称も、また固有名詞となりました。

  次に、蛸草大池

岡の大池の水は、岡村だけでなく中村・森安村・北山村・六分一村・国安村の立会池(共同の池)でした。

六か村は「岡の池」の池郷(いけごう)でした。そのため、六か村は互いに結びついていた地域でした。

中世、これらの池郷の村々は、「蛸草庄」に属していました。

そのため、大池は岡一村の池ではなく、池郷共通の名称である大池という意味で「蛸草大池」の名称をつかったのでしょう。

霊元6年(1666)の六分一の水利組合に残る絵図(写真)には蛸草大池とあります。

慣習は恐ろしいもので、「蛸草大池」という新しい呼び名ができても、人々の間では「岡の大池」の呼称はなくならず、「蛸草大池」「岡の大池」の呼称は、共に使われていたようです。

現在でも、「岡の大池」とばれる方がおられます。

  そして、天満大池

そして明治22年、天満村が誕生しました。ここに天満村にある大池という意味の「天満大池」の呼称となりました。

少し想像の多い報告となってしまいました。

コメント
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