ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町探訪:毛利軍来る ③

2007-06-11 08:43:58 |  ・加古川市別府町を歩く

9413ece2    別府村について、『播磨鑑』には、「阿閇庄(あえのしょう)別府村」とあり、『播州名所巡覧図絵』に、「別府、本庄村(現:播磨町)の西の村にて阿閇庄なり」とある。

  別府がもと阿閇庄内(現:播磨町)に属していたことがわかる。

  別府は、その昔、阿閇の一部の村であった。

  「別府は加古川市・・・・」という我々の思い込みから地名・地域の混乱が生じる。

  このことを念頭におき、『播磨灘物語』(司馬遼太郎)を続ける。(一部省略)

 ◇毛利来る(3)◇

  ・・・毛利軍は水軍の運用に長じていた。かれらは、はるかな根拠地から水軍でやってきて、意外な場所に船団を着け上陸作戦をやる。

  ・・・官兵衛は、阿閇の別府城の望楼にのぼって敵の来襲を待っていた。夜は、まだ明けない。

  海面は暗いが、敵の動きはわかる。対岸の淡路島の岩屋から、無数の火が押し寄せてくる。

  かれらは、夜中に播磨灘を押し切って、夜明けに上陸しようとしているのである。

  ・・・

  「敵は八千」という情報がとどいていた。

  (敵の目的は何か)

  と官兵衛は考えていた。

  おどしか、本気か、本気なら目的は何か。

  敵の作戦家がたてた計画は、こうであるに違いない。

  八千で印南野(いなみの)に押しこみ、秀吉の軍を震撼させる。(別府城を落としたの後)秀吉の軍が騒いでも目もくれず西方へゆき、空城同然の姫路城をおとす。

   秀吉の軍が、驚いて三木城の囲みを解いて姫路へ救援にかけつける。

  そこで野外決戦をおこなう。三木城の城兵は、城外突出して秀吉軍の背後をつく。

  (考えそうなことだが、戦はそうはうまうまとゆかぬものだ)

  官兵衛は、思っている。

  敵にとって最初の戸口であるこの別府城がよく防げば、その作戦(毛利軍の作戦)は根底からくずれてしまう。

コメント
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