平岡定太郎(さだたろう)は福島県知事に抜擢された。抜擢したのは原敬である。彼は、まもなく樺太庁長官になった。定太郎の長男が梓(あずさ)であり、彼も父親と同じく東大出の官僚であった。その息子が平岡公威(きみたけ)、つまり三島由紀夫である。
定太郎は、加古川市志方町に生まれている。昨日、妻と平岡家の(20日)菩提寺、真福寺(西神吉町宮前)を訪ねたが、墓地は志方の方へ移されていた。
*平岡家の菩提寺、真福寺(加古川市西神吉町宮前)
三島由紀夫と加古川市について、若干書いておきたい。由紀夫が加古川市を訪れたのは二回のみである。
一回目は、由紀夫に徴兵検査の命令が来た時である。当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けてもよかった。彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格をのぞみ、徴兵を逃れたかった。おしなべて体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなる。幸い、当時の由紀夫は体の貧弱な若者であった。たくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が高くなると踏んだ。
この、徴兵検査の時加古川を訪れた。検査は視力・腕力・走力それに重量挙げまであった。後に、「仮面乃告白」で、この時のようすを「・・・・農村青年たちが軽々と十回も上げる米俵を、私は胸までも持ち上げられずに検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結果は第二種合格で・・・」と表現している。
これは、本人も父も誤算だったに違いない。なお、この検査は加古川公会堂、現在の、加古川小学校の横の図書館で行われた。これが一回目の加古川訪問になった。
昭和20年2月4日、赤紙、召集令状の電報があった。電文には、「本籍地で入隊せよ」とか書かれていた。
東京を発つ時、微熱だったが、志方に着くにつれて熱は激しくなった。入隊地、現在の青野ヶ原へ出かけた。この時のようすを、もう一度「仮面の告白」から引用したい。
「入隊検査で獣のように丸裸にされて、ろうろしているうちに、私は何度となく、くしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセルと間違え、あまつさえ、この誤診が私のでたらめの病状報告で確認され・・・(省略)・・・私は、肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。営門を後にすると私は駆け出した。荒涼とした冬の坂が村の方へ降りていた。」
この時が、由紀夫の2回目の加古川訪問である。彼は加古川が、あまり好きでなかったのか、その後の加古川訪問はなかったし、作品にも書いていない。
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