ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

湯乃山街道

2006-06-19 08:56:59 | 加古川市

  信長・秀吉の時代、東播磨各地の城主は三木・別所氏の支配の下にあった。もっとも加古川城だけは秀吉方につくが、単独では別所氏には、とうてい対抗できる勢力ではなかった。今日は三木合戦の話ではなく、三木を通った「湯乃山街道」について書きたい。

  加古川市の住民としては、古くから加古川地方の方が、三木よりも経済的に優れていたと言う思い込みが強い。戦国時代、東播磨の各城主が三木の支配下にあったことを、いぶかしるのである。

  加古川の河口に発達した加古川・高砂の町は、ずいぶんと水害に悩まされ続けた。加古川は暴れ川であった。その為か生活は安定しなかった。広い河口は旅人の渡川を苦しめたことであろう。治水技術が発達するのは、戦国時代以後で、江戸時代に急速に発達している。

  三木には「湯乃山街道」が走っていた。この街道は事情が加古川とは違って、水害の少ない内陸部の街道である。「湯乃山」は有馬のことで、姫路から三木を通り、有馬に達し、さらに、宝塚から京都や大阪へ通じた道である。つまり、三木は重要な交通の要所に位置していたのである。この地を三木の別所氏が拠点にしたのも合点がいく。

  旅人にとって、「湯乃山街道」は魅力があった。何よりも途中で、温泉につかり、旅の疲れをとることができたのである。南北朝時代、播磨と西摂津を制した赤松氏は、特に、この街道を重要視した。

  三木から西へ湯乃山街道を行くと、宗佐(そうさ)・国包(くにかね)・井口(いのくち)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)、さらに志方、そして姫路に通じている。両荘公民館の前(南)の道は、まぎれもなく「湯乃山街道」の一部である。

  15年ほど以前のことである。地元の人と、この街道について話したことがあった。その時は「湯乃山街道ですか?」「有馬・京都へ通じてましたん?」「ほな、昔はええ道でしてんな」「・・・・」

  先日(6月15日)薬栗のIさんのにお会いしての帰り、そんな話をしたことを思い出した。その時と比べても、この「湯乃山街道」の話題は風化したようである。「加古川市史」にも「湯山街道」についての詳細な記述はない。

  我々としては少し不満が残る。「湯乃山街道」が元気であった頃、この街道沿いの村々も栄えていたに違いない。

 *写真左は薬栗(上荘町)の道、右は国包(八幡町)の道。共に旧:湯乃山街道の一部である。

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