ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:綿作

2007-04-16 08:59:45 |  ・加古川市八幡町

C7b7410b_1   江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれた。

  交通も発達し、商品の流通は盛んになった。

  江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培された。

  特に、姫路藩は、財政改善の切り札として綿を藩の専売として奨励した。

  姫路木綿は、品質がよく、江戸で大好評を得た。木綿の多くは、加古川地方で栽培された。

  文化14年(1817)、上西条(加古川市八幡町)では全耕地面積の21.9%に綿が植えられ、新田のみでははるかに多く、本田の2倍以上を占めていた。

  ここに下村(加古川市八幡町)の綿作の記録がある。下村も畑地と新田畑に集中している。

  綿作比率は、文化4年(1807)まで、全耕地の10%に満たなかったが、文化10年後に急速に増加し17.3%を占めている。

  特に、畑における増加は著しく、享和年間の2・3倍の面積を綿花が占め幕末にいたっている。

  下村の総面積に対する綿作比率(%)の推移を挙げておきたい。

  享和元年(1801)   8.2     文化4年(1807)   8.2  

  文化10年(1813)   17.3     文政5年(1822)  17.4

  天保3年 (1832)  13.4     天保13年(1842)  16.2  

     弘化4年 (1847)  14.5 

  秋には真っ白い綿花の風景が広がっていた。

*『近世農業経営の展開(岡光夫著)』(ミネルヴァ書房)参照

 挿絵は「つんだ綿花を持ち帰り目方を懸けている図」(綿圃要務)より

  

   

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