文観は、後醍醐天皇と結びつく
文観が、いつのころから鎌倉幕府をつぶす計画を思い立ったかはわかりません。
醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺だし、中でも寺内の道淳(順)が、後醍醐天皇の信頼を得ていました。
文観は、この道淳の直弟子でした。
文観は、師である道淳の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたのでしょう。
たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。
後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。
政治の場から遠ざけられ、愛欲と詩歌書画の世界に埋没し、そのことにほとんど疑問を感じていなかった当時の歴代天皇の中では変り種といってもいい天皇でした。
「自分は政治をやりたい」
三十を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう思ったのでした。
一方、学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。
理論には弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物でした。
一方の文観も、また政治好きな人物でした。
学問もよくし、仏教のほかに算道・呪術も好きだったといいます。
それも、机上の学問としてではなく、むしろ現実的(実用的)な学問を愛したようです。
鎌倉幕府打倒を・・・・
この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは当然のことだったのです。
政治好き、権謀好きにとって、陰謀、革命くらい心の躍る課題はありません。
さっそく仲間を集め、秘策が練られました。
この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた、と『太平記』は書いています。
しかし、この「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。
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