文観ルート
後醍醐天皇は、いよいよ反幕の実行運動にのりだしました。このとき、計画が挫折して逃げこんだ笠置山は、文観の息のかかった土地でした。
はじめ、後醍醐は華々しく都で挙兵するつもりでしたが、うまくゆかず、奈良の東大寺を頼りました。
それというのも、東大寺には、文観の、相弟子の聖尋(しょうじん)がいたからです。
が、東大寺には後醍醐受けいれに難色をしめす勢力があったので、やむなく笠置山へ移るのですが、ここは聖尋が直接管理していた寺です。
後醍醐は、文観ルートによって聖尋を頼り、笠置へ落ちたのです。
そして、一月余り笠置山にとどまり、幕府軍の攻撃をうけて落城し、後醍醐は捕えられて、隠岐へ流されました。
そのうちに、足利尊氏、新田義貞といった武家側から、幕府に反旗を翻すものが出て鎌倉幕府は崩壊します。
幕府崩壊に伴い後醍醐の都に返り咲きます。
そして、いわゆる「建武の新政」をはじめました。その時点で文観も都に呼び戻されました。
建武の新政で復活
彼にとっては、生涯で絶頂の時代でした。蔭の大物的な活躍を見せたのはこの時期でした。
しかし、建武新政はまたたく間に崩壊します。
武家政治を頭から否定する後醍翻の政治は、まさに時代錯誤の連続でした。
その道をたどらせた文観も、その責は負わねばなりません。
その後、足利尊氏との対決に敗れた後鞭醐は、またもや都を飛び出し、吉野へ落ちるのですが、その吉野も文観の支配する醍醐寺の系統の寺でした。
醍醐寺と吉野は昔から修験道を通じて深く結びついていました。
後醍醐が、吉野に逃れた理由を、教科書等では、天然要害の地とし、地理的、軍事的な面から理由づけしているようですが、これは一面的な見方にすぎません。
当時の吉野は、多勢の僧兵を抱える独立王国でした。
そして、そこを牛耳るのは文親系の僧侶だったのです。
第一回目の笠置山といい、第二回目の吉野といい、後醍醐は文観ルートに乗って動いています。
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