ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(35):文観(2)・やはり文観は常楽寺で修業

2013-11-17 09:19:20 |  ・加古川市加古川町大野

         文観は一乗寺の僧侶か

82ab7cd7『太平記』では、文観を次のように紹介しています。

「・・・文観と申すは、元は播磨の国・法華寺の住侶たりしが、壮年のころより醍醐寺に移住して真言の大阿闍梨(あじゃり)しかば・・・」
 『太平記』の記述では文観は法華寺の僧侶であったとし、疑っていない。
 太平記の作者にとって、播磨の国の寺といえば、イコール法華山一乗寺であり、氷丘村の常楽寺は知識の中にはなかったのではないかと想像します。
 文観の修業した寺として、当然のごとく法華山一乗寺と結びついたのかもしれません。
    
やはり、文観は常楽寺の僧
 『加西郡誌』は、峯相記(みねあいき)にある法華山一乗寺講堂供養記事を紹介しています。読んでおきます。
 「・・・・正和文保のころ、当山、前僧侶の宇都宮の長老宿願にて二階九間の講堂を造り、改め正中元年十一月二十一日上棟、建武二年十月十四日文観上人広真(文観のこと)を以て供養した。
 西国第一の大堂也・・・(中略)これらの記録により文観と法華山との関係は、だいたい想像できるであろう。
 文観が講堂の供養に来たのは、その全勢時代で故郷に錦を飾ったものであろう。・・・」と。
 これは文観の一乗寺の講堂建設の話です。
 続けて、『加西郡誌』は、「次に、加古郡氷丘村常楽寺々によれば・・・」と、先に紹介した洪水の後、文観が常楽寺の復興した」と紹介しています。
 この文章に続いて、「これによって考えるのに、文観の生国はやはり播磨であり、僧侶としての修業は、まず法華山においてなされたものであろうことは、疑う余地がない・・・」と、文観が一乗寺で修業したと、断定しています。
 上記の記述から、むしろ「以上の文章からは、僧侶としての修業は、まず「氷丘村の常楽寺」でおいてなされたものであろうことは、疑う余地がない・・・」と読めないでしょうか。
 歴史学者・網野善彦氏も太平記の「法華寺」は「播磨の律宗寺院常楽寺」(『日本中世史の再検討(p32)』(山川出版社)であるとされています。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (大野)常楽寺研究(34)... | トップ | (大野)常楽寺研究(36)... »

コメントを投稿