ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

永田耕衣の風景(5) 父母の不仲

2017-01-09 09:36:14 | 永田耕衣の風景

 耕衣を取りまく自然は、まさに天国のような別天地でした。

 しかし、そのころ耕衣には寂しさがありました。

 それは父と母の諍いであり、家の中を暗くしていました。

 このころの耕衣の家庭のようすを『部長の大晩年』から引用します。

     永田姓を継ぐ

 父・林蔵は小地主であり、村役場の吏員。

 耕衣は、その母・りゅうが40を過ぎてからできた。

 兄と姉がいたが、いずれとも年が離れすぎ、忘れていたころ生まれきた子であった。

 その上、なお寂しい気分にさせることが起こった。

 岩崎家に生まれてきたのに、物心のつくころ、耕衣一人だけが永田姓を名乗ることになった。

 母の妹の永田ていに子供がなかったため、戸籍上のことではあったが、耕衣は永田家入りさせられたからである。

 明治39年(1906)、耕衣6歳の時だった。

     父母の不仲

 加えてそのころから、家庭の空気が冷え込んだ。

 両親が不仲になり、それぞれの嘆息が耳に入り、大人の世界の難しさというものを耕衣は感じ取るようになった。

 ・・・・

 母親が家を出たまま、長い間、家に戻らぬこともあった。

 このため、小学校に通う耕衣は弁当が持って行くことができず、昼食時間には、一人学校を抜け出して、すぐ役場の宿直室へ。

 ここで父親の焼く目刺しなど昼食をとった。

 おかげで目刺しは耕衣の好物となり・・・(no3444)

 *写真:「父・林蔵と母・りゅう、大正元年の頃の撮影」(『永田耕衣の世界』姫路文館)

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