ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

永田耕衣の風景(4) 今福(耕衣の故郷)の風景(2)

2017-01-08 08:18:10 | 永田耕衣の風景

 永田耕衣の故郷、今福の風景を続けます。

    夢のような世界

 耕衣は子供のころの今福の風景を『火の記憶』で、次のようにも語っています。

 これは耕衣、81才(1981・昭和56年)の文章です。

 「子供のころ」とは、明治の終わりごろの今福の風景と想像します。

 

 ・・・私の生家は、印南の只中に存在する50戸ばかりの寒村の、はしっぽにあった。

 門先からは、いつも鶴林寺の森と塔が眺められた。

 二千メートルも南へ行けば瀬戸内海の浜辺に出られるのだが、少年時代もその海に親しむこともなかった。

 山は遠くただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。

 わずかに荷車の通ることのできる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家の所有の田を、お互いに区切りあった畦ばかり。

 そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。

 ことに田植前までの田圃は、たいていレンゲを茂らせていた。

 まったくの「春の野」といえる豪華な夢の世界であった。

 村童たちも夢のように、村を離れて、ソコら中を自由に駆け巡った。

 そうした「野遊び」に「孤独感」はなかった。

 両親をも忘却しきって、さながら舞い遊んだ。

 遊び暮らした。

 一切の「世苦」等は、身に覚えぬ別天地であった。

    今福は激変中

 今福は、耕衣は、「50戸ばかりの寒村」と書かれているが、現在は800軒を超えました。

 私の書斎の前は、昨年までは田畑でしたが、今年中にすべて整地され50軒ほどの家が建つ予定です。今福は今も激変中です。

 城山氏は、『部長の大晩年』の二節で今福を「ホタルの里」とされ描いておられます。

 今福からホタルが消えてひさしくなりました。(no3443)

 *挿絵:ホタルの里

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 永田耕衣の風景(3) 今福... | トップ | 永田耕衣の風景(5) 父母... »

コメントを投稿