永田耕衣の故郷、今福の風景を続けます。
夢のような世界
耕衣は子供のころの今福の風景を『火の記憶』で、次のようにも語っています。
これは耕衣、81才(1981・昭和56年)の文章です。
「子供のころ」とは、明治の終わりごろの今福の風景と想像します。
・・・私の生家は、印南の只中に存在する50戸ばかりの寒村の、はしっぽにあった。
門先からは、いつも鶴林寺の森と塔が眺められた。
二千メートルも南へ行けば瀬戸内海の浜辺に出られるのだが、少年時代もその海に親しむこともなかった。
山は遠くただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。
わずかに荷車の通ることのできる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家の所有の田を、お互いに区切りあった畦ばかり。
そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。
ことに田植前までの田圃は、たいていレンゲを茂らせていた。
まったくの「春の野」といえる豪華な夢の世界であった。
村童たちも夢のように、村を離れて、ソコら中を自由に駆け巡った。
そうした「野遊び」に「孤独感」はなかった。
両親をも忘却しきって、さながら舞い遊んだ。
遊び暮らした。
一切の「世苦」等は、身に覚えぬ別天地であった。
今福は激変中
今福は、耕衣は、「50戸ばかりの寒村」と書かれているが、現在は800軒を超えました。
私の書斎の前は、昨年までは田畑でしたが、今年中にすべて整地され50軒ほどの家が建つ予定です。今福は今も激変中です。
城山氏は、『部長の大晩年』の二節で今福を「ホタルの里」とされ描いておられます。
今福からホタルが消えてひさしくなりました。(no3443)
*挿絵:ホタルの里
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