文観は播磨「常楽寺」の僧
従来、文観は、もっぱら後醍醐天皇の、黒幕のような人間と思われてきました。まず、彼の生まれから始めたいのですが、はっきりとしません。はっきりしていることは、播磨の人というだけです。
文観は、僧侶です。
文観は、西大寺の律宗寺院と深いかかわりをもった僧侶です。
中世史の専門学者である網野善彦氏は、『日本中世史像の再検討』(山川出版社)で、はっきりと、次のように「文観は、播磨常楽寺の僧侶であった」とはっきりと主張されておられます。
「・・・・
播磨の法華山一乗寺、あるいは播磨の律宗寺院常楽寺の僧侶であった。
このことは『太平記』等によってよく知られていますが、この寺も叡尊と深い関わりがある。・・・・・」
文観の生い立ちははっきりしません。
西大寺に移る
その後、西大寺に移りそして、真言宗を学んで頭角を現し、当時最も社会的にも勢力のあった醍醐寺の座主となり、当時の長者をも兼ねています。
このころ延暦寺の社会的勢力が院政期よりかなり低下していて、それに代って台頭してきたのが醍醐寺でした。
彼はそこの最高権力者になったのです。僧侶の場合、俗姓は公家の場合ほど問題にはならなりません。
つまり、僧侶として再興の地位に就いたのでした。
南北朝の歴史をよくよく見つめれば、じつは後醍醐天皇を躍らせているのは彼にほかならいのかもしれません。
彼は、この時代のプロデューサーとして、南北朝争乱の企画、立案、制作、演出、すべてを担当しているのです。
その手法があまりみごとだったので、後世、彼については奇妙な伝説が生まれました。
「真言宗の僧侶だった彼は、立川流という邪淫の秘術をもって後醸醐天皇をまどわし、それで側近になりあがったのだ」と。
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