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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

永田耕衣の風景(19) 母・りうの死

2017-01-23 08:59:52 | 永田耕衣の風景

    仕事でも全力、趣味でも全力

 膨大な数に上る耕衣の句の中に、会社のことをうたった句はほとんどありません。

 まるで俳句だけで生きてきた人のように、耕衣の句に職場の匂(にお)いはない。

 耕衣は会社という公の世界と、俳句という私の世界を峻別(しゆんへつ)して生きるタイプだったようです。

会社のためだけでなく、俳句のためにもその二つの世界は、耕衣の中では、相互に不可侵ということで、成り立っていたのでしょう。

 どちらでも、脇目もふらず全力疾走、全一力投球しました。

 耕衣は、会社人間としてはおおむね常識人でした。

 その耕衣が、常識人であることへの反動にエネルギー叩きつけたのが俳句の世界でした。

     母・りうの死

 俳壇に衝撃を与えたのが次の一句でした。

    朝顔や 百たび訪(と)はば 母死なむ

 非常な句とも言えます。

 りうは、41歳で耕衣を産み産後の肥立ちがわるく、病弱な後半生を送ることになり、父親の女遊びも、そこから始まりました。

 これらの事情のため、耕衣が成人したときには、母りうは、まるで祖母と言ってよいほど老(ふ)けこんでおり、それだけにまた、耕衣の母想(おも)いはつのりました。

 りうは、夏蜜柑(みカん)畑の一隅の小さな住居で、ひとり暮らし、冬はよく戸口に筵(むしろ)を敷いて、日向(ひなた)ぼっこしながら、足袋を綴ったしていました。

 りうの好物は柿(かき)で、その季節には、耕衣は忘れず柿を買って持って行きました。

 母はよろこんで、一つを二人で食べるとともに、残りをすぐ吊るし柿にしました。

 そうした、りうの姿は、水田の広がる印南野(いなみの)の自然の一部に見えたりもしました。

 田舎にて 老母も虻(あぶ)も 茶褐色

 りうは、昭和2511791歳で他界しました。(no3458

 *写真:実母岩崎りう(70歳のころか)

 

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