仕事でも全力、趣味でも全力
膨大な数に上る耕衣の句の中に、会社のことをうたった句はほとんどありません。
まるで俳句だけで生きてきた人のように、耕衣の句に職場の匂(にお)いはない。
耕衣は会社という公の世界と、俳句という私の世界を峻別(しゆんへつ)して生きるタイプだったようです。
会社のためだけでなく、俳句のためにもその二つの世界は、耕衣の中では、相互に不可侵ということで、成り立っていたのでしょう。
どちらでも、脇目もふらず全力疾走、全一力投球しました。
耕衣は、会社人間としてはおおむね常識人でした。
その耕衣が、常識人であることへの反動にエネルギー叩きつけたのが俳句の世界でした。
母・りうの死
俳壇に衝撃を与えたのが次の一句でした。
朝顔や 百たび訪(と)はば 母死なむ
非常な句とも言えます。
りうは、41歳で耕衣を産み産後の肥立ちがわるく、病弱な後半生を送ることになり、父親の女遊びも、そこから始まりました。
これらの事情のため、耕衣が成人したときには、母りうは、まるで祖母と言ってよいほど老(ふ)けこんでおり、それだけにまた、耕衣の母想(おも)いはつのりました。
りうは、夏蜜柑(みカん)畑の一隅の小さな住居で、ひとり暮らし、冬はよく戸口に筵(むしろ)を敷いて、日向(ひなた)ぼっこしながら、足袋を綴ったしていました。
りうの好物は柿(かき)で、その季節には、耕衣は忘れず柿を買って持って行きました。
母はよろこんで、一つを二人で食べるとともに、残りをすぐ吊るし柿にしました。
そうした、りうの姿は、水田の広がる印南野(いなみの)の自然の一部に見えたりもしました。
田舎にて 老母も虻(あぶ)も 茶褐色
りうは、昭和25年1月17日91歳で他界しました。(no3458)
*写真:実母岩崎りう(70歳のころか)
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