文観は、弘安元年(1278)~正平十二年/延文二年(1357)の人です。河内の金剛寺が臨終の地であり、年齢は80才でした。
なくなった場所、年齢は問題がありません。
しかし、生まれた年齢は、記録が無有りません。<o:p></o:p>
従って、亡くなった年齢から逆算です。文観が生まれた場所も分かりません。
後醍醐天皇とともに活躍した高名な僧としては不思議なことです。
文観を知りたい
「(大野)常楽寺研究」は、文観のことを知りたくて、とりあえず、今までの研究をバラバラですが、まとめています。
それでも、文観が大野常楽寺で修業したことは確かなようであることを知ることができました。
それ以上の手掛かりかりはプッツリと切れてしまいます。
そのために、何でもよいから分かることを調べることにしました。
そこで、文観が大野常楽寺で修業したと思われる少年時代の大野の風景から攻めてみます。
時代を、文観が10才の正応元年(1288)に設定してみました。
特別な意味はありません。この頃、文観が常楽寺で修業していたと思えるからです。
正応元年・(1288)頃の大野の風景
文観が10才頃の大野の風景を①五ヶ井用、②加古川、③山陽道を手掛かりにして想像します。
さっそく、鎌倉時代の大野集落の散策に出かけましょう。
五ヶ井郷の集落
五ヶ井用水は鎌倉時代すでには、五つの地域に水を供給している大切な用水でした。「五ヶ井用水」と呼ばれました。
その五つの地域とは、①北条之郷、②加古之庄、③岸南之庄、④長田之庄、それに⑤今福之庄の五つの地域です。
大野を含む北条郷の集落を紹介しておきます。
*注:行政単位として「村」が使われたのは江戸時代ですが、ここでは理解しやすいように「村」を使いました。
五ヶ井用水の話を続けます。
*図:大野あたりの「五ヶ井用水路」
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