1336年、建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇は京都を脱出、大和の吉野へと向かいました。
吉野に着くと、そこを仮の皇居と定めました。
一方、同じ年、京都では、足利尊氏の被護の下に、光明天皇が即位しました。南北朝時代の始まりです。
1338年、尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられ、足利幕府が京都に開きました。
吉 野
後醍醐天皇が吉野に拠点を置いたのは、山深く守りが固いというだけではなく、吉野には、京都奪還を目指す上で、重要な条件が備わっていました。
吉野は、奈良の奥深い山の中にありながら、実は全国とつながっていた情報の一大中心地でした。
まず東は、古くからの南朝の支持勢力、その先には東国への玄関、伊勢の大湊があり、 西には、楠木氏が拠点とする河内国、その先にあったのが西国への玄関、堺の湊でした。
南に行けば南朝の支持勢力、熊野水軍があり、海の道が開けていました。そして北には、目指すべき京都があったのです。
また、吉野には金峯山寺というお寺があり、吉野は、全国から山伏が集まる修験道の一大拠点でした。
後醍醐天皇の死
延元4年(1339)8月、後醍醐天皇は劣勢のまま吉野で病に倒れました。おそらく夏風邪だったと思われます。
一人病床に伏しながら、天皇は52年の人生の来し方を思い返す日々をすごしていました。
余命幾日もないと悟った天皇は、吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、天皇は次のように遺言しました。
「我は死んでも殉死者を望まぬ。宝を墓に入れることも無用。我は生まれ変わる先まで怨念を抱いて、朝敵をことごとく滅ぼして天下を泰平の世に返そうと思う。
それ故に、我が身はたとえ吉野山の土に埋もれても、魂は常に北の都の天を望んで止まぬ。もし我が命にそむき、大義を軽んずるならば、天皇も跡継ぎの天皇ではない。臣も臣と認めぬ・・・」
凄まじい執念でした。
*『堂々日本史』(KTG中央出版)参照
写真:後醍醐天皇陵(吉野)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます