豊富な人脈 文観は、後醍醐の吉野行では、もちろん行動をともにしています。
やがて、後醍醐が吉野で世を去り、後村上時代になりました。
そのころ吉野は、高師直(こおのもろなお)に攻められて陥落します。
南朝方は、さらに南に下って賀名生(あのう)に立こもり、一時期勢力を盛りかえして河内に進出したことがありました。
このとき本拠となったのが、観心寺と金剛寺ですが、金剛寺の学頭職は文観の弟子でした。
文観は豊富な人脈をもっていました。 そしてその背後には豊富な寺領がありました。
いってみれば、南北朝の内乱は、文観が武家社会を向うにまわし、手持ちの人と財力を総動員して打った大ばくちともいえるのではないでしょうか。
南北朝に対する評価は、まだ学界でも揺れています。
大まかに見れば、鎌倉御家人体制から室町守護大名制への転換期であり、その意味では、武士団相互の戦いこそ、歴史の主流と見るべきでしょう。
が、そこに重ねあわせて、武家相互の戦いの隙間を縫って、公家・寺社などの旧勢力のあったことを見逃せません。
文観は、いわば、旧勢力の代表的人物としてとらえられるべきでしょう。
彼が一応の騰利をおさめたのは、個人の資質によるというより、当時の日本の体質の古さに原因しているといってもいいと言えます。
正平十二年(1357)年、文観はなくなりました。80歳。
河内の金剛寺が臨終の地でした。
文観は語らない
「常楽寺研究」とは言いながら、長々と文観を取り上げました。
というのは、「常楽寺」が気になりだしたのは、文観と常楽寺つまり加古川との関係が知りたかったためです。
多くの学者の研究により、若き文観が修業したのは(大野)常楽寺であったことは、ほぼ確実になっています。
私は、文観の生まれも加古川ではないかと想像しています。
しかし、若い時代について、彼はなにも語っていません。今のところ、記録にも残されていません。
語りたくなかった事情があったのでしょう。
次に、後醍醐天皇にも少しふれておきます
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