北風家について続けたい。
「北風家」では代々「荷主、船頭、水主(かこ)など、身分を問わず大切にせよ」という家訓があった。
北風の湯
『菜の花の沖(二)』(文芸春秋)も「北風の湯」から書き始められている。
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北風の湯というのは、二十人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものであった。
「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていた。
老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談は、後進にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報になった。
兵庫の湊では船乗りであればだれでもよかった。
湯殿は、蒸し風呂と湯槽(ゆぶね)の両方があった。
洗場では十数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流し会ったりしながら情報を交換していた。
湯あがりの後、時には酒もでた。
北風家としても全国からの情報を集め商売に利用していたことはもちろんであった。
松右衛門も、北風の湯で学ぶ
松右衛門は、15才で兵庫の湊に飛び出し、御影屋で働くようになり、やがて船に乗った。
最初は、だれでもそうであるように、船乗りといっても「炊(かしき)」という雑用から始まる。
当時の慣行として、「炊」は先輩から、しょっちゅう怒鳴られ、ぶたれた。それに耐えたものが船乗りになった。
詳細は分からないが、松右衛門もそんな炊の時期を経て、20才を過ぎた頃、船頭になった。
兵庫の湊で働いていたというものの、15~20才前の頃までは、北風の湯へは敷居が高く出入できなかったと想像される。
20才前にはいっぱしの水主になり、「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れた、夢はますます膨らんだ。
*写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)
七宮神社の近くに北風家・北風の湯があった。