鶴林寺(no1)・なぜ鳩里村?
復習です。
明治22年4月1日に粟津村・木村・友沢村・稲屋村・北在家村・備後村等の村々が合併して加古郡鳩里村となりました。
では、どうして鳩里村(きゅうりむら)という名称なのでしょう。
これは、この地域に名刹、鶴林寺があったためです。
鶴林寺は、「斑鳩寺(はんきゅうじ)」とも呼ばれていました。
そのため「鳩」の一字をとって村の名称(鳩の里:鳩里)としました。
その鳩里村も、大正4年3月20日、加古川町(かこがわちょう)に編入し、行政地名から消えていきました。
そんな鳩里地区の歴史探検を鶴林寺から始めましょう。
鶴林寺は聖徳太子の創建ではない しかし・・・
旧鳩里村北在家は、鶴林寺について書くことを若干ためらっています。
鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうです。
加古川市の歴史の一番よりどころは、『加古川市史』です。
『加古川市史』で鶴林寺のか所を執筆されたのは神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生です。
石田先生は、鶴林寺について『加古川市史』に「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書いておられます。
しかし、鎌倉時代以来、鶴林寺のはたした役割は、あまりにも大きかったことを最初に書いておきます。
以下の説明は『加古川市史』からの引用です。
・・・鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝える(鶴林寺縁起)。 *用明天皇:聖徳太子の父
「刀田山」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて妨げ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるという。 寺院の縁起にはあまり似つかわしくない説明をしている。
用明天皇二年といえば聖徳太子は十五歳ばかりのころだから、幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えない。
・・・中略・・・
現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていないが、このことは現在の寺域には奈良時代には寺院が存在しなかったことを示している。(『加古川市史・第一巻』より)(no5660)
*写真:鶴林寺山門
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