鶴林寺(2)
鶴林寺は四天王寺から勧請
前号で「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書きました。
では、鶴林寺はいつ、だれが創建したのかということですが、これも『加古川市史(第一巻)』から一部を引用します。
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鶴林寺は、もと「四天王寺聖霊院」と称し、養老二年(718)には身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝える。
身人部は、播磨の在地土豪らしい。その時期を平安後期と推測している。
その理由は、当時の伽藍配置が平安中期以降あらわれる天台寺院に共通している。・・・
まとめます。
① 元の鶴林寺は、養老二年(718)、身人部春則が建立した。
② その殿堂を刀田山四天王寺と寺号とした。
③ 鶴林寺の伽藍配置は平安後期のものである。
四天王寺について、少し思いきったことを書いてみます。
「歴史は、そこまで語っていない」といわれる方も多いと思うが、そんなことを想像します。
四天王寺・救済事業・聖徳太子、そして太子信仰
四天王寺は、もっぱら学問であった方隆寺と異なり、鎮護国家としての役割の外に、悩める人々の救済を展開(実践)することに力を注いだ寺院でした。
四天王寺は、もちろん聖徳太子の建立になる寺で、その救済事業は聖徳太子への信仰と重なります。
特に、承和年間(834~848)は、あい次ぐ疫病と転変地異による混迷の時代でした。人々は、救済を神・仏に求めました。
このような状況下で四天王寺の救済のはたした役割は大きいものでした。人々を救う聖徳太子と観音菩薩を重ねたとしても不思議ではありません。
「太子信仰」という場合、いろいろに解釈されますが、ここでは聖徳太子は観音の化身であり、貧しい者を救う仏であるとします。
四天王寺と救済事業が重なる時、観音菩薩の化身として太子が救済者として歴史に登場しました。
太子は、まさに救世観音(ぐぜかんのん)と偶像化されたのです。
鶴林寺は、四天王寺から勧請された寺であったのです。
寺の中心として、当然のごとく「太子堂」が建立されました。
時代は、鎌倉・室町時代へと続きます。中世(鎌倉・室町時代)は飢饉・天変地異の時代であり戦乱の時代でした。
人々は、ますます太子に救済を願いました。
鶴林寺は、この地方の「太子信仰」の中心の寺となりました。(no5661)
*写真:兵庫県下で最も古い木造建築・鶴林寺太子堂
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