加古川は暴れ川だったが
絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部です。
正保(しょうほう)播磨図絵」では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがあります。*正保(1644~1648)
この時、現在の加古川本流は加古川の支流であり、本流は現在の高砂市の西部を流れていました。
このように、加古川は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えています。
加古川の周辺に住む人々にとって、加古川は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあったことを忘れることはできません。
そのことを差し引いたとしても、この地方は、百姓の命であった水に恵まれた土地であったことを確認しておいてください。
大野は、賑わいの郷
加古川は豊かな恵みの水の外に、大切な道の役割も果たしました。
年貢だけではありません。
加古川上流からの多くの物資が下流に、下流からの物資は上流に運ばれました。
それらの物資は、山陽道(江戸時代は西国街道)を通して東西に運ばれました。
旧山陽道のバイパスが大野を通っていました。
大野を通過した旧山陽道については、次回に取り上げます。
大野は、一大ターミナルであり、賑わいのある郷でした。
*絵図:「正保播磨図絵(解読図)」の一部
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