賀古の駅(かこのうまや)
7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強めました。
そして、勢力を更に拡大するために道を整備しました。
とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は重要な道でした。
街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。
野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれました。
山陽道最大ということは、日本で最大の駅が野口に置かれたのです。
他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えました。
山陽道
古代山陽道は、今の国道二号線に沿って造られましたが、図の点線のような古代山陽道は、野口から日岡山へ、そして升田へ渡り、神吉・大国・岸・魚橋というバイパスがよく使われました。
古代において日岡(大野)と升田の狭さく部を過ぎた加古川は、平野部で乱流したため、バイパスの方が、むしろ使われました。
記録によると鎌倉時代、寺家町に山陽道の駅(うまや)が設置されていますが、このころから、加古川の氾濫源はじょじょに安定し、山陽道も野口から真っ直ぐに西に伸びた山陽道がよくつかわれようになりました。
大野は情報の集まる場所
ちろん、山陽道は現在の国道号線にあたります。古くからこの国道1号線が大野を通っていたのです。
道路は、人、物資ばかりではありません。情報がここに集まりました。
大野は、人、物が通過した場所ではなく、情報の集まる場所だったのです。
*図:古代山陽道(点線が古代山陽道野バイパス)<o:p></o:p>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます