再び永平寺へ
札幌にある大寺院、中央寺の住職になって5年の歳月が流れました。この間奕保禅師は雲水の育成に全力を注ぎました。
昭和56年の夏、宮崎禅師(せんじ)の人生にまた大きな転機が訪れました。
永平寺で監院(かんいん)を務めていた禅師が亡くなり、宮崎禅師は、その後任を引き受けてほしいと頼まれたのです。
監院というのは、禅寺において会計や人事、あるいは地方の寺院との連絡や外部との交渉、さらには広報的な事柄にいたるまで、寺の維持運営に関わるすべての責任を負う役柄です。
奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に
続いて、宮崎禅師は副住職に推挙されました。
宮崎禅師は、副住職になった時、85歳でした。
一方・永平寺の住職(貫主)である丹羽禅師は・宮崎禅師よりも年下で、81歳でした。
副住職になって8年半の歳月が流れた平成5年9月7日、丹羽禅師が亡くなられたのです。
これを受けて宮崎禅師は、七十八世貫首に就任することになりました。
宮崎禅師、この時93歳でした。
平成5年11月30日・永平寺の上空には青空が広がり、やわらかな日の光が山内を照らしました。
その日、78人目の住職の就任を祝う晋山式(しんざんしき)が行われました。
さようなら、ありがとう
只管打坐によって宗門を導いていくと宣言した宮崎禅師は、それを実際に行動によって示しました。未明の僧堂には、誰よりも早く坐禅を行う老住職の姿がいつもありました。
永平寺の住職(貫主)になった当初、自分にどれだけその大役を務めることができるか、分かりませんでした。
「せいぜいもって、一年か二年だろう」
かつて大病を患ったこともあり、不安を抱えながら、永平寺の住職としての務めでした。
しかし、宮崎禅師は、90歳を過ぎた老体にもかかわらず、しばしば地方の寺に出かけました。
この頃、宮崎禅師のもとで侍局長されていたのは北野泰成(たいじょう)氏でした。
余談です。北野氏は私の卒業した高校の同窓会長を長らく務めておられ、よくお見かけしました。
しかし、宮崎禅師の体力は、日に日に衰えました。
平成19年の11月、宮崎禅師は九州で法要を行った後に、かつて住職を務めた札幌の中央寺に行かれました。
その後、数日にわたって微熱が続いたため、入院検査でした。
検査の結果は、肺が片方機能していないために酸素が十分に摂れなくなり、肺や気管支で炎症をおこしていたのです。
しかし、年齢のため、自然に回復するのを待つより方法はありませんでした。
平成20年1月5日、新年を迎えて108歳になったばかりの宮崎禅師は、長い人生に幕を閉じられました。
洞宗大本山永平寺78世貫主は、およそ1世紀にわたって、ひたすら坐禅を行い続けた禅僧でした。
奕保氏は最後に「さようなら ありがとう」の言葉を残され旅立たれました。(合掌)(no5632)
*写真:宮崎突保(えきほ)氏が洞宗大本山永平寺78世貫主に就任した記念碑(福田寺境内)
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