司馬遼太郎の小説が好きです。彼の小説は筋の外に、余話の面白さがありあます。先生の授業中の脱線話です。
司馬氏の小説には、高級な脱線話が満載です。
そして、小説を読んでいて、つくづく「人は時代の産物であり、土地の産物である」ということを思い知らされます。
さて、「常楽寺研究」ですが、文観を知りたいために取り上げた寺院です。
彼は確かに、常楽寺で修業しています。
激動の時代に生きる
時代は、中世の終わりです。まさに激動の時代でした。
文観の生きた南北朝時代は、中世と近代を分けた時代で、その前後では社会の仕組み、ものの考え方は全く変わっています。
文観は、この激動の時代の荒波の中にいました。
そして、大野は当時、北条郷に属していました。
北条郷は、水に恵まれた地域でした。そして、情報の集まる地域でした
ですから、当時の周辺の地域と比べて賑わいのあふれた郷であったと思われます。
その豊かさが、立派な常楽寺とその傘下の多くの寺院を守り育てたのでしょう。
もちろん日岡神社(日向社)を含めての話です。
<愚説>文観は大野に生まれる
ここからは、全くの小説の世界です。そのつもりで聞き流してください。
・・・・弘安元年(1278)、大野のあるお百姓さんの家に一人の男の子どもが生まれました。元気な、頭のよい子に育ちました。
大野には、旅人が行きかいました。いろいろな情報が伝わりました。
自然と彼は、大野の外の世界へのあこがれを持つようになりました。
お父さんに相談しました。お父さんは「百姓に生まれたら、百姓になるんじゃ・・・・」と、いうばかりでした。
そうなると、ますます外の世界を見てみたくてたまりません。
繰り返し、お父さんに頼みました。お父さんも、どうしてよいのか分かりません。郷のお寺(常楽寺)の坊さんに相談しました。
お坊さんは「字も読めないで、町へ出ても何もできへん。ます、常楽寺で修業して、字も覚えてからの事じゃ・・・」と、気のりをしない返事をしました。
が、彼はうれしくて常楽寺に入り、修業を始めました。
後の文観の気性からして、負けん気強い子供であったのでしょう。たちまちに、字も覚え、僧としての頭角を現しました。
*写真:聖観音立像(常楽寺所蔵・文観の時代の常楽寺の本尊か)
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