ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

常楽寺研究(48):文観と大野・常楽寺研究(一部)終わり

2013-12-01 09:09:08 |  ・加古川市加古川町大野

 この辺りで「常楽寺研究」を一部として閉じなければなりません。裏付けのない想像だけが独り歩きさせています。
 前回、文観は、大野の出身であることを想像しました。
 が、確実なことは、文観は弘安元年(1278)に生まれたことだけです。
文観は「大野の百姓の子として誕生、まだ見ぬ世界にあこがれ、その準備として常楽寺に入った」としました。もちろん、史料はありません。
   
 文観と大野
 010
 史料はないのですが、文観の出生を大野にこだわっています。
 というのは、常楽寺が、高名な大寺院であると、広い範囲から修業に来られたと思います。
 常楽寺は、近在では比較的名の知れた寺院であったかもしれませんが、特に「常楽寺でなければ・・・」というほどの寺院はなかったかと想像します。
 入門したのは北条郷(大野がその中心)からと考えられるのです。
 そのことが、「文観は大野の人物」と考えた、第一の理由です。
 二つ目は、前回紹介したように、当時は農業社会です。大野は農業にとって命である「水」の豊かな地域でした。
 それに、山陽道のバイパスが通り、物・人の往来があり、若者にとって刺激的な情報が大野に伝わったと考えられます。
 当然のこととして、後の文観は、見果てぬ夢を抱いたと思われるのです。
 前回は、文観を百姓の子供としました。
 百姓の子供が、身分を越えて世に躍り出ようとすれば、僧侶以外に考えられません。
 そんな、計算あったのかもしれません。
 それも、「豪農の子供ではなかった」と思うのです。
 文観は、自分の出生について一切語っていません。語りたくない理由があったのではないでしょうか。
 当時は身分社会ですが、僧侶に限り、比較的、身分を問われません。
 しかし、身分の低い階層であればは、不利にこそなれ、有利に働きません。
 自分の出生を語っていないのは、農民出身であったっここにこだわってのかもしれません。<o:p></o:p>

 「常楽寺研究」(一部)の終わりは、強引な推測ばかりです。この辺で、いったん終わっておかなければ墓穴にはまりそうです。
 もう少し調べて「常楽寺研究(二部)」を再開します。しばらくお待ちください。
*写真:現在の常楽寺<o:p></o:p>

 

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