この辺りで「常楽寺研究」を一部として閉じなければなりません。裏付けのない想像だけが独り歩きさせています。
前回、文観は、大野の出身であることを想像しました。
が、確実なことは、文観は弘安元年(1278)に生まれたことだけです。
文観は「大野の百姓の子として誕生、まだ見ぬ世界にあこがれ、その準備として常楽寺に入った」としました。もちろん、史料はありません。
文観と大野
史料はないのですが、文観の出生を大野にこだわっています。
というのは、常楽寺が、高名な大寺院であると、広い範囲から修業に来られたと思います。
常楽寺は、近在では比較的名の知れた寺院であったかもしれませんが、特に「常楽寺でなければ・・・」というほどの寺院はなかったかと想像します。
入門したのは北条郷(大野がその中心)からと考えられるのです。
そのことが、「文観は大野の人物」と考えた、第一の理由です。
二つ目は、前回紹介したように、当時は農業社会です。大野は農業にとって命である「水」の豊かな地域でした。
それに、山陽道のバイパスが通り、物・人の往来があり、若者にとって刺激的な情報が大野に伝わったと考えられます。
当然のこととして、後の文観は、見果てぬ夢を抱いたと思われるのです。
前回は、文観を百姓の子供としました。
百姓の子供が、身分を越えて世に躍り出ようとすれば、僧侶以外に考えられません。
そんな、計算あったのかもしれません。
それも、「豪農の子供ではなかった」と思うのです。
文観は、自分の出生について一切語っていません。語りたくない理由があったのではないでしょうか。
当時は身分社会ですが、僧侶に限り、比較的、身分を問われません。
しかし、身分の低い階層であればは、不利にこそなれ、有利に働きません。
自分の出生を語っていないのは、農民出身であったっここにこだわってのかもしれません。<o:p></o:p>
「常楽寺研究」(一部)の終わりは、強引な推測ばかりです。この辺で、いったん終わっておかなければ墓穴にはまりそうです。
もう少し調べて「常楽寺研究(二部)」を再開します。しばらくお待ちください。
*写真:現在の常楽寺<o:p></o:p>
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