ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(39):後醍醐天皇(1)・八髻文珠菩薩は語る

2013-11-21 07:29:20 |  ・加古川市加古川町大野

            後醍醐天皇の野望
  14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめていました。
 時の執権北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。

そのため、政治は腐敗しました。社会の秩序も乱れ始めました。
こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位しました。
 天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
 後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせました。
 そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷したといいます。
     八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること 

9f278829_2後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されています。

般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻文珠菩薩」(写真)がありました。

最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願して作らせたものであったことが、近年明らかになりました。

菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されました。

銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。

「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。

後醍醐天皇は着々と討幕の準備を進めていました。

後醍醐天皇が幕府の目を欺くために、しばしば開いた宴会では「無礼講」で、参加者は、裸に近い姿で、女をはべらせ、酒を酌みかわしたといいます。

これを隠れ蓑に、統幕計画を練っていたのです。

*『堂々日本史』(KTC中央出版)参照

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