挙兵失敗、流罪、そして復活・・・
元弘元年(1331)八月、後醍醐天皇は京都の笠置山で挙兵します。
しかし、この挙兵は準備不足のために失敗。
天皇は捕えられて、隠岐島に流されてしまいました。これで後醍醐天皇の討幕計画は、ついえたかに思われました。
ところが、間もなく各地で討幕の狼煙(のろし)が次々と上がりました。
まず吉野で、後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし)親王が挙兵しました。
それに呼応して、河内の楠木正成が兵を挙げ、さらに播磨では、赤松円心(えんしん)も立ち上がりました。
楠木正成は、もともと河内の地侍だが、河内と大和を結ぶ街道をおさえ、水銀を商うことで急速に力をつけてきた新輿勢力の一人でした。
楠木正成は千早城に立てこもり、わずか1000ほどの手兵で、何万と いう幕府の軍勢を翻弄したのです。
城の上から石を投げ、大木を転がして敵を押し潰しました。
楠木正成の戦い方は、これまでの武士では考えられないような、ゲリラ的なものでした。
赤松円心
一方、播磨で挙兵した赤松円心は、近隣の街道筋をおさえ、流通業で財をなした商業的武士でした。
赤松円心の支配地を流れる千種川は、中国山地を源流として瀬戸内海に注く物流の大動脈です。
赤松円心の経済力は、この千種川を支配することによって生み出されたです。
千種川は、流通だけでなく、もう一つの利益を赤松円心にもたらしていました。
それは砂鉄です。千種川上流は、古代から砂鉄の産地として知られていました。
ここで取れる良質の砂鉄は、千種鉄と呼ばれ、優れた刀剣を作るためには欠かせないものとされていました。
この辺りには鍛冶千軒と呼ばれる地名が残っており、鉄製品の生産地であった名残りをとどめています。
*絵:後醍醐天王像(大徳寺蔵)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます