加古川町大野探検(16)で、少しだけ紹介しておいた常楽寺墓地の紹介です。
常楽寺の宝塔
常楽寺の墓地にある宝塔は材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。
この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています)
(常楽寺宝塔)
花崗岩製
高さ 2.35メートル
銘文 正和四年(1315)乙卯八月 日
願主 沙弥道智
この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。
道智は、東大寺戒壇院の律僧
『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。
また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。
『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(1688~1704)としても、「文観慈母塔」の造られた正和四年(1315)とは、およそ400年を経ています。はっきりしたことは分からなくなっていたのでしょう。
『播磨鑑』の説をそのまま信じるのは、少し強引です。
今まで宝塔の銘・願主「道智」は、謎の人物とされてきました。
それは、道智は西大寺直属の律僧であると決めつけて研究されてきたようです。道智は見つかりませんでした。
ところが、兵庫大学の金子先生(中世史)は、律宗は他の律宗系列とも関係しており、東大寺戒壇院の僧・凝然(ぎょうねん)の「円照上人行状」に道智を発見されています。
そこには「・・・道智は、常陸の人、本(元)忍性上人之門人・・・」と書かれています。
忍性の師は叡尊です。とすると、道智は、もと西大寺系の律僧だったようです。
常楽寺の宝塔が造られた正和四年(1315)の文観は後醍醐天皇と大接近をしていた時でした。(no5154)
*写真:常楽寺墓地の宝塔(写真中央)