西大寺の末寺
文観、西大寺(奈良)と大野(加古川町大野)の常楽寺とのつながりを見ましょう。
私たちの地域で、西大寺の末寺は常楽寺だけではありません。
西大寺の末寺帳に次の寺が挙げられます。
加古川市加古川町本町 常住寺 元は寺家町
加古川市平荘町山角 報恩寺
加古川市尾上町 成福寺(不明)
*常樂寺は、西大寺直参末寺の中でも、最も格が高いグルーブに入っています。
以上の4ヵ寺の内、成福寺は名前のみで詳細は分かりません。尾上神社あたりにあった寺院ではないかと想像しています。
兵庫大学の金子先生は西大寺流の寺院として、さらに次の2寺を指摘されています。
西大寺流寺院
稲美町中村 円光寺(元は国安)
加古川市加古川町稲屋 福田寺
加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。
真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私たちの地域では天台律僧も活躍もしています。
天台律僧の活躍については、さいわい『室町お坊さん物語(田中貴子著)』(講談社新書)がありますのでご覧ください。
この本では、律僧(鎮増)の目を通した、加古川地方(米田)の水害などのようすも紹介されています。
真言律宗
西大寺が創建されたのは奈良時代ですが、当初は、壮麗な寺院でした。
しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどりました。
鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失いました。これを再生したのが叡尊(えいぞん:1201-1290)です。
叡尊は、当時の戒律を守らない、特に浄土系の僧侶・人々(庶民)のあり方に疑問をもちました。
西大寺に住み、深く戒律を学びました。
西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てました。
お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、かつてお釈迦さまがしたように、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。
そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べています。
真言律宗寺院の活動は、多方面に及びました。
「戒律を守る」ことにあることは当然です。その他、貧民・人非・らい患者の救済事業にも取り組みました。
また、幅広い技術集団を抱え、道路・橋・泊・港の整備などを行いました。つまり、当時のインフラ整備のエキスパート集団を抱えて活動しました。
中でも西大寺系の石工集団は「伊派」とよばれ、優れた石造物を多く残しています。
特に加古川近辺では数々の伊派の石造物が、特に多く残されています。
真言律宗の戒律、「伊派」の石工集団については、後に紹介しましょう。(no5129)
*写真:叡尊像(西大寺蔵)