大庄屋を話題にするとき、寛延二年(1749)の「播磨全藩一揆」を避けることはできません。
今日は、大歳家の話題が登場しませんが、「姫路藩・播磨全藩一揆」を紹介しましょう。
姫路藩・播磨全藩一揆
新野辺村の属する姫路藩にとって、元文から寛延にかけての時期は、まさに怒涛のような時代でした。姫路藩最大の危機であった大一揆がおきています。
1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。
白河藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。
姫路への引越し費用は、江戸の商人からの借金でなんとか賄いました。
この時、江戸商人と「借金は姫路で支払う・・」という約束をしました。
そのため、姫路に入るや、年貢の引き上げ等により増収をはかりました。
その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄りました。
幕府は、この接待を姫路藩に命じました。二万両が必要でした。
借金まみれの姫路藩に商人は協力しようとしませんでした。
さらに、悪いことがかさなりました。
明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いていました。
寛延元年(1748)も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」となりました。
姫路藩は、強攻策にでました。
西条組の大庄屋・沼田平九郎はなにかと藩に迎合しました。
寛延二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。
年貢の減免を願い出た百姓は投獄されてしまいました。
百姓たちの不満が爆発したのです。
野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。
一揆の後、大弾圧
藩から足軽部隊が出動しました。やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われました。
寛延三年(1750)九月一揆の中心になった者の死刑が言い渡されました。
姫路藩の財政負担は、百姓に覆いかぶさることになりました。(no3368)
*図:播磨全藩一揆の進行経路(高砂市史・第二巻)