ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(249):播磨町を歩く(130) 貧乏物語⑧・二割打ちだし①

2014-09-14 12:32:04 | 播磨町

  播磨町史『阿閇の里』を読む
 二割の増税へ
 
時代を江戸時代の始まりに設定します。
 関ヶ原の戦の後、池田輝政は姫路藩に入部しました。
 大大名の格式と体面のため9年の歳月をかけ、のべ2.400万人と推定される膨大な労力を投入して姫路城はようやく完成したが、輝政は慶長十八年(1613)で死去しました。
   
池田氏の支配から小笠原氏の支配へ
Photo
 つづいて、輝政に引き続き、元和二年(1616)長男・利隆が急逝すると、嗣子・新太郎幸隆(後の光政)は幼少のため鳥取に移され、利隆の旧領は、本田忠政に姫路15万石、二男・政朝に竜野5万石、忠政の女婿小笠原忠真は明石10万石が与えられました。
 そして、残り二万石は池田氏一族の池田重利と輝政の甥・建部政長に鵤・林田、各1万石が与えられたので、池田氏の知行地は分轄され支配されることになりました。
 元和三年(1617)七月、信州松本から小笠原忠真が2万石の加増で、明石10万石に転封され入部してきました。
 明石10万石とは、明石郡8ケ村5万石、加古郡4ケ村3千石、加東郡1万石、三木郡3万7千石で、加古郡4ケ村とは、二子村・東二見村・西二見村・福里村で、この時点から二子村は
、数寄な運命を経て明治に至っています。
 
     増税:姫路城建設など
 二割打ちだし
 これらの巨費は、全て村高を基準として農民から徴収する以外に方法はありません。
 そのため、輝政はその費用をひねり出すため、村高を平均
2割も高く設定しました。
 慶長
14年(1609)秋10月、あしかけ8年に及ぶ大工事で堂々とした姫路城は完成しました。
 が、播磨の百姓は、この重税に黙っていたのでしょうか。
 詳細はわかりませんが、農民の不満はふつふつと高まっていたに違いありません
 二子村は、姫路藩ではなかったのですが、関係がありました。その状況を見ることにしましょう。
*播磨町史『阿閇の里』参照

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コメント
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